7月の二日間
平成最後の年となるであろう2018年は打ちつづく自然災害の年として記憶されるかもしれない。4月の島根県西部地震に始まり、6月には大阪北部が地震にみまわれる。同月の終わりから早すぎる猛暑が激しさを増し、熱中症で多くの人が倒れたとのニュースが各地で聞かれる。熱波が冷めるまもなく台風7号と梅雨前線の影響で6月の末からは豪雨が降り続く。7月の初めには特別警報が各地で発令され、広島や岡山など、西日本を中心に水害や土砂災害の報告が相次ぐ。台風が去ったあとでも熱波はやまず、7月後半から8月にかけても、多くの地域で摂氏40度を超える真夏日が続いた。酷暑のなか、8月には2つの大型台風が相次いで襲来する。台風20号と21号は雨や風による災害を引き起こし、とりわけ21号が関西の都市や空港に与えた被害の様子はニュース映像となって日本中に放送された。だが関西国際空港の惨状に目をみはるまもなく、北海道の胆振東部で観測史上最大級の地震が発生する。土砂崩れにより露呈した山肌に驚嘆した遠方の人もいれば、全道的な停電によって困難な状況に陥る現地の人もあった。
各地でまだ完全な復旧が見られないまま、暦は秋の盛りに向かっている。
神戸大学文学部において表象文化論学会第13回大会の開催が予定されていたのは、6月の末から続いた豪雨が阪神地区においてピークに達した7月の初旬、7月7日の土曜日と翌8日の日曜日だった。前々日の5日頃から雨脚はいっそう強まり、観測史上最大の降水量という報を受けて開催を危ぶむ声がちらほらと聞かれだしたのもこの頃からだったように思う。実際大学近隣のいくつかの地域では土砂災害を避けるための避難勧告も発令され始めていた。工学部キャンパスで起こった土砂崩れの映像は全国区のニュースで流れたとも聞く。大会の実行委員長であった自分は、開催の決定を左右する立場に置かれていた。もちろん完全な独断ではないが、会場校およびその近辺にもっとも詳しいものとして主たる判断を要請されるのはやむを得ないと思えた。とはいえ、今まで様々なイベントに企画運営側としても参加してきたが、開催するか否かという根本的な判断をすることはそれほど多くなかったように思われる。実行委員(長)の役目があるとしても、それは開催を前提とした上で、さまざまな段取りに腐心することだと思っていた。当時最初に抱いた気持ちを端的に述べるならば、「ババを引いた」という一言に尽きていた気もする。まったくついてない、自分は知らず悪いことでもしでかしたのか。だが刻々と変化する状況を前に、何かの報いかもしれないと前世を呪っている暇も惜しく、情報を可能な限り収集して最善の判断をすべく努力しようという気持ちも湧いてきた。面白いことに、この段階で、自分がかつてないほど合理的・哲学的になったような気もする。事態は「どの時点で、どこまで分かった上で、どのような決定をすべきか」ということを要請しているのであり、つまりは「いかにjudgement(判断・決断・裁定)を下すか」ということが賭けられているのだ、と考えるに至った。後にして思えばこれほど現実的でこれほど実践的な思考のレッスンはない。ひょっとしたら哲学的思考とは、悪い手札で勝負に挑むための試行錯誤なのかもしれない。
判断を形成する際には目的と素材が重要となる。すなわち、安全な開催可能性を担保するために、いかなる条件が必要とされるか、という点を明確にしなければならない。今回開催を決定するにあたって第一に検討を重ねたのは、会場および会場に到着するまでの経路の安全性であった。早ければ金曜日の夜にも到着していた関東圏からの参加者のために、新神戸駅から神戸大学にかけての区域に土砂災害の危険地域がないかなど、ハザードマップを参照しながら確認した。また多くの人が宿泊先にしていたと思われる新神戸駅直近のANAクラウンプラザホテルには直接電話をかけて問い合わせ、施設や近隣の道路状況に異常や損害はないとの回答を得た。このホテルはもっとも山際に位置しており、ここを基準にすれば他のホテルは総じて安全と考えられる。また、宿泊地として多くのホテルがある三宮・元町といった神戸市中心部についても、立地に基づいた安全性を確認することができた。交通状況に関しては、主として東京神戸間の交通と京阪神間の交通網の二つの状況を考慮した。その二つの経路がもっとも多くの来訪者が利用すると考えられたからだ。幸いなことに、東京から新大阪までの東海道新幹線は、本数は減らされていたものの運行を続けていたし、京阪神間のJRや私鉄各社も、神戸大阪京都の間でなんらかのアクセス可能な路線を残してくれていた(新神戸以西から来訪される方には申し訳ない判断となったが)。新神戸駅から大学にかけての道路状況を具体的に知るため、開催当日には自分で早朝にいくつかの道路区間を往復運転して見分し、中途で土砂災害に遭遇した箇所がないかも確認した。
会場の安全性についてもできる限りの注意を払った。調べていてわかったことだが、そもそも当日の会場となった神戸大学文理農学部キャンパスのうち、隣接する農学部キャンパスは災害の際の一般向け避難所に指定されている(この災害後に文学部もそうした方向性で開放すると決まった)。つまり何かが起こったとしても大学内にいた方がむしろ安全が保証されるのではないか、と考えることができた。また会場となる文学部キャンパスの建物は比較的新しく、近年耐震工事も追加して施され、雨漏りや漏電などのトラブルも報告されていなかった。人的なレベルでの配慮としては、開催日の大学院生スタッフの数を多めに、および実働時間を長めに配当して、何かあったときに大学内の状況を知っている人が少しでも多くなるように配慮した。前日の会場設営の折にも、スタッフの学生たちは大学内の見廻りや案内板の設置に際していつも以上に神経を使ってくれた。
長くなるのでこれ以上の詳細は省くが、もちろんこうした作業は、気象庁や地方自治体のニュースやアメダスを分単位でチェックしながら、天候の推移を予測することと並行して進められた。土曜日の午後あたりから天候は落ち着いてくるはずだった。初日のシンポジウムの登壇者の方々も神戸までたどり着けることが確認された。瀧川記念会館でおこなわれるパフォーマンスの人々からも開催可能という返答をいただいた。安全に到着できる経路は、頻度はいつもよりも少ないものの確かに存在している。着いてしまいさえすればいっそう安全である。ならば、開催できるのではないか。自分が集めた情報や見聞の結果を総合し、当時の企画委員長のK氏、会長のS氏、事務局長のK氏、広報委員長のY氏、そして現会長のT氏など、さまざまな方とメール電話で相談し知恵と力を借り、開催可能の判断と合意を得るに至った。
開催さえ根本的なレベルで危ぶまれかねない状況のなかで、自分を開催の方向へと駆り立てたものをあえてあげるとするならば、それは二日目の研究発表パネルの存在だった。学会というものに意義があるとするならば、それは新しい研究成果の発表においてなのだろう。とりわけ表象文化論学会は若手の会員による野心的な研究が数多く発表されることが特徴になっている学会である。近年の業績重視の傾向のなかで、「査読付き発表」にカウントされる学会発表の場を取り消すことは、若手研究者の将来を減じることにもつながりかねない。そう考えて、せめて二日目のパネル発表の日だけでも開催すべきであると(公言はしなかったものの)強く思っていた。もちろん「平常性バイアス」に陥ることは避けねばならない。擬似的災害状況でなされた今回の決断は、懐疑主義的な態度を保ちながらも、そこからなんとか日常的な営為の可能性をすくいあげていく試みであった。
上記のような経緯を経て、結果的には予定通りの両日開催となったのだが、関西各地で行われている学術的イベントがほとんど中止となっていたことをあとで聞いて若干冷や汗をかいたのも事実だ。不便な状況のなかタクシーで次々に来場されるファッションシンポジウムの聴衆は計100名以上にも及んだが、その人たちが帰る際には雨脚が弱まっているのを確認して少し安堵した。続くパフォーマンスの時間帯では最後に少し晴れ間さえのぞいていたような気さえする。もっともこれは実際の天候なのか、自分の心象風景による記憶の混乱なのか、まったく確証がない。一日目の夕方くらいだろうか、文学部の中庭で鳥の鳴き声が聞こえ始めた。これで大丈夫だと思った。
パフォーマンス会場も少しのぞくことができた。阪神大震災当時のラジオを演劇的に再生するパフォーマンスの最中に、配布された小さなラジオから時折、当日の台風災害の情報を知らせる生の災害放送が割り込んできた。20数年前の風景が現在に形を変えて蘇り、折り重なる瞬間が生じたというべきか。
それだけではではない、と何人かの人が言うかもしれない。「あの日」以来、わたしたちは常に、被災と復旧の連続のなかを生きているのだ、と。「あの日」がいつどこで起こった何を指すのか、それは人によって異なるだろう。仮にここ20年ばかりの範囲で考えてみても、数々の災害が人々に刻みつけた記憶や傷跡はいまだに生々しい。嵐の後の二日間、神戸の山の麓にあるキャンパスは、様々な傷を負ったあらゆる人たちや幸いにしていまだ傷を知らぬ人たちが、集まり、思考し、語り合う場となることができていただろうか。過去の幾多の痕跡と同時代に紡がれる未来への思考が不意に出会う場を維持することに、一つの学会の、ひいては人文学の役目があるのではないか。
長くなりましたが、最後に改めて御礼申し上げます。困難な天候のなか、遠方からご参加いただいた会員非会員すべての方々、シンポジウムやパフォーマンスを企画・運営していただいたすべての方々、開催に向けた当方の意思を尊重し御支援くださった学会の企画・編集・広報各委員や理事役職者の方々、自分たちの発表機会を後回しにして裏方に徹してくれた神戸大学大学院生の方々、みなさん本当にありがとうございました。人文学の未来は、状況に屈せず対話の場を作り出し、そこに足を運んでくださったみなさんの勇気とともにあると信じています。
十月某日、台風チャーミーが去った後の神戸にて。