研究ノート

占領下フランスのシュルレアリスム、「ペンを持つ手」グループとシュルレアリスムの戦後

進藤久乃

第二次大戦下のフランスでは、多くの知識人が亡命を余儀なくされた。シュルレアリストらも例外ではない。グループの中心であるアンドレ・ブルトンを始め、マルセル・デュシャン、イヴ・タンギーらはアメリカへ渡り、バンジャマン・ペレはメキシコに活動の場を移した。それを機にシュルレアリスム美術とアメリカ現代美術との交流が生まれ、ブルトンやペレが神話への探求を深めたことはよく知られている。

しかし執筆者がここ数年研究対象としているのは、ナチス占領下、フランスに残ったシュルレアリストたちだ。彼らは「ペンを持つ手」というグループを結成し、主要メンバー不在のフランスで、シュルレアリスム活動を存続させようとしたのである。本稿では、「ペンを持つ手」の活動を紹介し、このグループが第二次大戦後のシュルレアリスムに与えうる視点について論じてみたい。

I. 「ペンを持つ手」とは何か

1941年に「ペンを持つ手」グループを発足させたのは、元々シュルレアリスムに参加していたメンバーではなく、戦前はシュルレアリスム批判を繰り広げていた前衛グループ、「街灯」に所属していた二人の若い詩人、ジャン=フランソワ・シャブランとノエル・アルノーである。そこへ、ロベール・リユスやアドロフ・アッケルなどの比較的若いシュルレアリスト、パブロ・ピカソ、オスカー・ドミンゲス、ジャック・エロルドなどの画家が加わり、クリスチャン・ドートルモンを仲介役としてベルギー・シュルレアリストも参加した。紙の不足や検閲の強化、メンバーの散逸といった厳しい状況下、彼らは精力的に活動を行い、1944年に解散するまでに四十余りの出版物を発表した。検閲を避けるために毎号タイトルを変えて出版された集団的出版物──『ペンを持つ手…』(1941)、『イメージによる世界の征服』(1942)、『いまだに今後もシュルレアリスム』(1943)など──は、グループの機関誌として機能しており、とりわけ注目に値する。

「ペンを持つ手」については、ミシェル・フォーレの詳細な実証研究(Michel Fauré, Histoire du surréalisme sous l’Occupation, La Table Ronde, 1982)がグループの全貌を明らかにした後、アンヌ・ヴェルネーとリシャール・ワルターが編纂したアンソロジー(La Main à plume..., Anthologie du surréalisme sous l’Occupation, établie par Anne Verney et Richard Walter, Editions Syllepse, 2008)のおかげで、グループが集団的出版物として発表したテクストの大半を読むことができるようになった。2017年には、レア・ニコラ=トゥブールがパリ第三大学に提出した博士論文(Léa Nicolas-Teboul, Le communisme des esprits surréaliste à l'épreuve de l'Occupation : La Main à plume (1940-1944))の中で、メンバーの書簡、集団的遊戯の草稿などの未刊の資料を参照しながら、グループの主要な論点を網羅的に論じている。この仕事は、「ペンを持つ手」を同時代や戦後の流れの中に位置づける契機となり、今後の研究のレファレンスとなるだろう。

実際、これまで「ペンを持つ手」が積極的に評価されなかった一因は、同時代の文学やシュルレアリスム史の中に位置づけることが難しいことにある。「ペンを持つ手」の活動は、シュルレアリスムが占領下でも細々と続いていたという以上のものではなく、ジャン=ルイ・ベドゥアンの言葉を借りれば、「善意の人々の束の間の集い*1」に過ぎないように見える。その上、第二次大戦後、アルノーやドートルモンなどの数名のメンバーは、ブルトンらに反旗を翻して「革命的シュルレアリスム」を立ち上げ、自分たちこそが真のシュルレアリスムであると主張した。ファシスムの脅威が迫る1938年に「シュルレアリスム革命は終わった。我々は詩を武装解除する*2」と宣言していた若者たちが、ブルトン不在の大戦下では一転シュルレアリスムを自称し、大戦後はそれまで批判していた共産党へ接近する──時代を見通す慧眼とは程遠く、行き当たりばったりな彼らの行動を、ブルトンもまた、「不幸にも混乱したシュルレアリスム的傾向を持った活動*3」と評するしかなかった。

*1 Jean-Louis Bédouin, Vingt ans de surréalisme, 1961, Editions Denoël, Paris, 1961, p. 63. : ジャン=ルイ・ベドゥアン、『シュルレアリスムの20年』、三好郁朗訳、法政大学出版局、1971年、p. 56.
*2 « Démobilisation de la poésie », Les Réverbères, no 2, juin 1938, p.1. ただしこの宣言には、シャブランは署名しておらず、ドイツに行っていたものと思われる。
*3 André Breton, « Éphémérides surréalistes », appendices à la réédition en 1955 des Manifestes du surréalisme, Paris, Sagittaire, non paginé.

II. シュルレアリスムという磁場:答えではなく問いを共有すること

しかし彼らの活動を仔細に見れば、若い詩人たちの迷走は、混乱の時代にあってシュルレアリスムの意義を考えようと奮闘した軌跡であったことがわかる。そもそもシュルレアリスムはなぜ、つい最近までそれが古いと考えていた若い詩人たちにとってアクチュアリティーを持ったのだろうか。齊藤哲也は、前衛からシュルレアリスムへ、時代を逆行するように転向したシャブランとアルノーの「時宜を逸した選択*4」を指摘し、そこにシュルレアリスムの特異なあり方を見出している。この転身の明確な理由をつきとめることは難しいが、少なくともそのきっかけとなったのは、シャブランが1938年にミュンヘンで「退廃芸術展」を見て、ファシスムの台頭が芸術活動を脅かしている現実に危機感を強めたことだ。シャブランは帰国後、ブルトンとディエゴ・リベラの連名で発表された声明、「独立革命芸術のために*5」(1938)を読み、「芸術活動はいかなる外的要素にも従ってはならないが、同時に社会変革と密接に結びついている」とするブルトンの姿勢に賛同し、シュルレアリスムに近づいたのである。

*4 齊藤哲也、『零度のシュルレアリスム』、水声社、2011年、p.227.
*5 事実上はブルトンとレオン・トロツキーが起草したが、当時の政治的状況を鑑みてトロツキーは自分の名を出すことを控えた。

しかし若い詩人たちは、シュルレアリスムを選択することによって、自分たちの政治的立場を明確にしたり、同時代における芸術の役割について何らかの答えを出したわけではない。確かに彼らの基本的な政治的立場は、ブルトンのそれを引き継いでトロツキスムであり、解散の一因もグループ内の政治的対立にあったようだ。しかしアルノーが解散直前の手紙の中で、「反ファシスムという非常に大まかな枠組み*6」以外は各メンバーの活動には立ち入らないようにしていたと述べている通り、グループの基盤は政治的立場に還元されるものではない。むしろ彼らは、「芸術活動は、その独立性を保ちつつ、どのように現状に働きかけることができるのか」という問いをシュルレアリスムと共有し、シュルレアリスム活動を通じて考察しようとしたのである。

*6 Fauré, op.cit., p. 450. 共産党に近づいたことを批判され、刊行予定だった集合的出版物、『オブジェ』のための原稿を引き下げようとしていたジャン・シモンポリに宛ててアルノーが出した手紙。

III. 「夜」の時代の集合性

ナチス占領下のフランスは、しばしば「夜」にたとえられる。「ペンを持つ手」の詩人たちもまた同時代を「夜」と表現するが、彼らはそれを、潜在的な力を内包する生成の時間として捉えようとした。詩や芸術が、現実を、現在そうあるものとは別のものにしていくにはどうすればよいのか──この問いに答えるための方法として、彼らがとりわけ重点を置いたのが、集団的活動である。「集団的詩は、今日我々が有効に闘う保証となる*7」との考えに基づいて、彼らは集団的詩の制作や集団的遊戯を活動の中心に据えた。

*7 Arnaud, « Image dans la poésie collective », La Conquête du monde par l’image, juin 1942, p.8.

ブルトンを中心としたシュルレアリスムにとっても、「ペンを持つ手」にとっても、遊戯を始めとした集団的活動は、主体から客体へ移行する契機となるものだ。それが単に個人的な欲望の産物を共有するための機会ではないことも、両グループに共通する点であろう。しかし相違点もある。例えばブルトンらが1935年に行った遊戯、「ヴァリアントのオートマティスム」は、いわゆる伝言ゲームであり、参加者間に聞き違いを誘発させ、共有していると思い込んでいた元のフレーズを変容させる。それに対し、「ペンを持つ手」が行った、詩の一語一句を類義語で置き換えることを繰り返す「詩の模倣の遊戯」において重要となるのは、「子供と母親をつなぐ臍の緒を切り離すかのように*8」言葉とその主体を切り離すことだ。匿名的になればなるほど、言葉やイメージは「墓碑銘ではなく行為となる*9」。ブルトンらのシュルレアリスムが、共有していると思い込んでいる現実を参加者間のコミュニケーションの齟齬によって揺らがそうとするのに対し、「ペンを持つ手」の遊戯は、言葉をその主体から切り離し、集団の中で匿名的なものにしようとする。このような両者の集合性の違いが、メンバーの資質の違いからくるものなのか、戦時下の状況によるものなのかを判断することは不可能であろう。しかし少なくとも、匿名的な性質は、地下活動を続ける中で否応なく帯びたものであると考えられる。

*8 Ibid., p.10.
*9 Ibid., p.10.

IV. 戦後シュルレアリスムとの関わりにおいて

ブルトンがフランスに帰国した1946年5月、「ペンを持つ手」はすでに解散していた。ブルトンと比較的親しかったリユスがマキ活動で命を落としたこともあり、メンバーのうちブルトンに合流したのは、戦前からシュルレアリスムに参加していたアッケルなどごく少数である。アルノーやドートルモンなど数人のメンバーは、1947年に「革命的シュルレアリスム」を立ち上げ、自分たちこそが現在において真のシュルレアリスムであると主張した。

ブルトンに合流するつもりだった彼らが、大戦後に反旗を翻したのはなぜか。革命的シュルレアリスムが発表した宣言文やビラから読み取れるのは、第二次大戦を経て、両者の時間意識に大きな隔たりが生まれたことである。ブルトンが戦前と変わらず、芸術作品の未来への意図的な介入を拒否したのに対し、「ペンを持つ手」の詩人たちは、ナチス占領下という極限の状況において、シュルレアリスムに現在何ができるのかと問いかけざるを得なかった。シュルレアリスム活動は、現状を改善するという切迫した必要性に直面した時、どのような積極的手段を取りうるのか──その問いかけに、ブルトンは答えてくれることはない。少なくとも彼らにはそう思えたのである。

しかし革命的シュルレアリスムは、「ペンを持つ手」の終焉としてだけではなく、第二次大戦下で活動したベルギー、オランダ、チェコ、デンマークの前衛が団結する機会ともなった。グループ解散後、ベルギー、オランダ、デンマークのグループは、ドートルモンを中心に前衛芸術集団「コブラ」として再出発を果たした。一方アルノーは、コレージュ・ド・パタフィジックを経て、反前衛の立場をとるウリポの創設者の一人となる。上で触れたように、戦前のシュルレアリスムとは異なる様相を呈した「ペンを持つ手」グループの遊戯の共同体は、シュルレアリスムとウリポを比較する上で新たな示唆を与えてくれるのではないか。

もしブルトンが第二次大戦中フランスに残っていたら、シュルレアリスムはどのような活動をし、グループはその後どのような展開を見せていただろうか。無意味とは知りながら問いかけてしまうこのような問いに、「ペンを持つ手」もまた答えてくれるわけではない。しかし、「ペンを持つ手」の問題意識を引き継いだコブラやウリポとの関わりにおいて、大戦後のシュルレアリスムを再考することは意味のあることだろう。そしてこのような視点は、第二次大戦をフランス国外で過ごしたシュルレアリスムが、「ペンを持つ手」とは別の形で、第二次大戦を経てどのような問いを持ち、どのように変わったのかを明らかにしてくれるはずである*10

*10 本稿は、以下の拙稿をもとに、「ペンを持つ手」グループの位置づけについてまとめ直したものである。« La poésie de la Main à plume : le surréalisme sous l’Occupation »,(Images de guerres au XXe siècle, du cubisme au surréalisme, (dir.) Hiromi Matsui, Actes du colloque à l’université de Nagoya du 12 novembre 2016, les Éditions du net, 2017, pp. 71-80)、「「革命的シュルレアリスム」とは何か──「ペンを持つ手」の破綻から始まるもの」(『松山大学言語文化研究』 36巻2号、松山大学、2017年3月、pp.49-69)

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年6月22日 発行