アセンブリ 行為遂行性・複数性・政治
本書は、Judith Butler, Notes Toward a Performative Theory of Assembly, Harvard University Press, 2015の全訳である。Assemblyという言葉には、デモを含む「集会」と、「議会」という二つの意味がある。柄谷行人が述べるように、そもそも「アセンブリ」は、直接民主主義的な意味での「集会」と、間接民主主義的な意味での「議会」の二重の意味を持つ。しかし、近代社会において代表制が政治制度としてメインストリームをなすようになるにつれて、あたかも代表制の「議会」のみが「アセンブリ」であり、しかもそれは「集会」とまったく異なったもの、対立するものであるかのように見なされるようになった。しかし、「議会」とは「集会」を代表制的な制度に移し替えたものに過ぎず、「集会」こそが根源的なものである。だからこそ代表制的「議会」は、「集会」としての「アセンブリ」を恐れ、それを妨害するのである。その意味で、本書はまさしく民衆集会としての「アセンブリ」、代表制には還元されないような「アセンブリ」の力能について論じている。
バトラーによれば、私たちが保持すると想定されている「人民主権」は、代表制デモクラシーにおける選挙時には「投票権力へと翻訳されるが、それは決して完全あるいは十全な翻訳ではない」。つまり、人民主権は議会権力と同一ではなく、議会権力には還元されない剰余を常に保持している。だからこそ、議会権力の判断が正当性を欠くと判断される場合には、「人民主権」は集会やデモのような仕方で議会権力の外部から議会権力に圧力をかけ、極限的な場合にはそれを停止、解体し、打倒することができるのである。バトラーが「アセンブリ」としての集会に見出すのは、そのような議会外的、非代表制的な権力であり、代表制議会のオルタナティヴとなるようなもう一つの「アセンブリ」なのである。
本書では、「不安定性」と「行為遂行性」という概念が、民衆集会をめぐる考察において本質的な役割を果たすだろう。新自由主義的な統治が私たちを経済的、政治的に収奪し、私たちの生の条件を蝕むとき、私たちは生の根本的な「不安定性」という条件の下に置かれることになる(貧困、戦争、原発事故、非民主的統治のすべてがこの状況に相当する)。そのような生の「不安定性」に抗して多くの人々がデモや集会に集うとき、私たちの身体の複数的な集合そのものが生の「不安定性」に対して「行為遂行的」に抵抗している、とバトラーは言う。そのとき「アセンブリ」とは、まさしく身体の複数的な集合そのものがラディカル・デモクラシーの可能性を語る、一つの政治実践となるのである。
(佐藤嘉幸)