アーカイヴの魅惑と倫理
「アーカイヴの味わい(Le goût de l'archive)」──アーカイヴにおける歴史家の経験をめぐる、アルレット・ファルジュによる著書のタイトルである。その経験は大海への水没に似たものに譬えられている。アーカイヴのなかでひとは、資料の巨大な全貌を把握することなどまったくできず、ただそこに溺れるように沈み込むしかない。堆積した資料の束がぴったりと軀に密着してくるような、触覚的なその「味わい」の経験は、濃密かつ官能的でさえある。それがあまりにも充実した身体的喜びであるがゆえに、「何を論じるべきかわからない」という、無力感の混じった疑念が歴史家を続けて襲う。それだけにいっそう、資料に惑溺することへの誘惑は強く、そこから身を引き剥がす「アーカイヴからの帰還」は困難なものになる、とファルジュは言う。
アーカイヴに収集され蓄積された資料に接する経験が、「味わい」という多感覚・共感覚的な奥深い次元でとらえられ、身体を囲繞する物質的厚み──それは息を止めかねない危険を孕む──の触感として語られていることに注目したい。しかもその経験は、何か秘められ禁じられているかのような快楽をともなっている。ファルジュや彼女の共同研究者だったミシェル・フーコーにとってのアーカイヴとはまず、おもに18世紀フランスの司法アーカイヴであり、「汚辱に塗れた人びとの生」(フーコー)が権力と衝突することでほんの一瞬のあいだだけそこに閃かせた光跡は、殊更そんな禁忌の官能を帯びていたのかもしれぬ。しかし、こうした身体的な反応──ファルジュはそれが「感情的激震」にいたることもあると言う──は、広くアーカイヴなる場に共通した出来事であるように思われる。
それをアーカイヴにおける「生」との遭遇と呼ぼうか。ひとはこの資料の大海のなかで、作品や作者、被告や罪人、過去の時代や遠い地域の「生」と出会うのである。もちろん、そんなふうに対象に生々しく「触れる」、直接的な接触という感覚には、一種のフェティシズム的な倒錯が含まれているかもしれぬ。それが錯覚ではないかという疑念はつねにつきまとう。
にもかかわらず、アーカイヴがひとを魅惑してやまないのは、そこが不死性への信仰に近いものを投影できる場所だからではないだろうか。それは、特別に言挙げされ顕彰される「ビオス」ではなく、「たんなる生」としての「ゾーエ」の不死性への信仰である。博物館や美術館、図書館といった場に収められる作品や書物という形態をとらない、断片化して散逸しかねない生のかけらでさえ住み処とすることのできるのがアーカイヴという場であろう。その空間に没入することを願うのは、わたしたち自身の生もまた、いずれはそんなかけらとなることを知るからであるように思う。その宿命の予感ゆえに、アーカイヴは生と死の狭間の幽冥界となり、いったんそこに入り込んでしまった者にとって、「アーカイヴからの帰還」はひたすら難しくなるのである。
テクノロジーを駆使して、アーカイヴにあらゆるものを保存し、任意にいわば「再生」可能なものにしようとする衝動が現代文化の底流にあるとすれば、それはこの不死性への信仰の表われにほかなるまい。アーカイヴ化がたんなる長期的保管ではなく、視聴覚のみならず触覚や嗅覚、いずれ味覚まで含めた多感覚的な再生の技術へと拡張されるであろうこともまた、ここから導けるだろう。
何らかの物体やその物体を介した経験のこうしたアーカイヴ化の果てには、或る人物の生まるごとのアーカイヴ化という究極的なヴィジョンが待っている。ライフ・ログというかたちでデジタルに集積された個人情報は将来の歴史叙述を根本的に変えるだろう。一日の移動の距離や軌跡ばかりではなく、体重や脈拍数にいたるまで、肉体の微細な変化のことごとくがすべて記録される。データの蓄積を前提としたSNSの構造が、無数の生のこうした自覚なきアーカイヴ化を加速する。その情報がいったん公開されてしまえば、任意のキーワードで任意の人物の生がオンラインのデジタル・アーカイヴからダウンロード可能になるだろう。こうしてわれわれは手軽に万人の不死性を実現できることになる・・・。
アーカイヴがこんなふうに遍在するとき、「アーカイヴからの帰還」ではなく、むしろ「アーカイヴからの脱出」、あるいは、アーカイヴのなかに空隙を穿つことが問題となる。翻って、現存するアーカイヴについて問われるべきもまた、「そのアーカイヴにはいったい何が決定的に欠落しているのか」という、構造的な「不在」の可視化かもしれぬ。「汚辱に塗れた人びとの生」の光は闇ゆえに輝く。記録として残されなかった沈黙こそが雄弁に語る。すなわち、闇こそを輝かせる反転によって、禁忌の領域であるアーカイヴを裏返すのだ。そのとき、書き残されなかった無数の「秘密」たちは、輝く黒点の「星座」となって残されるだろう。
司法アーカイヴのみならず、古代ギリシア以来、アーカイヴが政治権力との密接な関係のもとで制度化されてきたこと、とくに民主主義体制の公開性が公文書のアーカイヴを実質的にも象徴的にも基盤としてきたことはここで繰り返すまでもない。そうした公のアーカイヴにおける記録の廃棄や改竄が民主主義的政治の根幹に関わる問題であることも、2018年現在の日本の政治状況が示している通りである。
だが、そのような、いわば「光のアーカイヴ」のかたわらに、記録を残すことが極度に困難な、ときに禁じられた人びとのアーカイヴ、「闇のアーカイヴ」が存在してきたのではないだろうか。たとえば、アウシュヴィッツ絶滅収容所で特別労務班員(ゾンダーコマンド)たちが地中に埋めた巻紙の文書、いわゆる「アウシュヴィッツの巻物」である。彼らは収容所の土地に、これらの巻物とともに、虐殺された遺体の無数の歯を撒くように埋めた──いつの日にか発掘されて、この場所でなされた蛮行を告げるようにと。雨でいったん洗われれば骨片が地表面に現われ出ることもあるという、犠牲者たちの骨の細片や灰がおびただしく堆積したこの大地それ自体が、闇のアーカイヴ、あるいは、痕跡の大半が灰燼に化したという意味で、「灰のアーカイヴ」なのである。
アーカイヴを大海に譬えたファルジュは歴史家の仕事を潜水になぞらえている。歴史家は真理のかけらを海中で見つけ、それを拾い上げて浮上し、地上へと「帰還」しなければならない。しかし、もはや帰るべき地上が失われているとしたら? 汎アーカイヴ化する世界のなかで「アーカイヴ」をとらえ直すためには、先に述べたような構造的反転というトポロジカルな思考が必要とされる。そしてそれは、テクノロジカルなアーカイヴ化によるインスタントな不死性獲得の誘惑に逆らいつつも、いかにみずからの秘密を生のかけらとして残すかという、日常的な実践の課題でもあるに違いない。そのとき、地中に秘められるしかなかった灰のアーカイヴという極限的な実践は、アーカイヴの倫理を測るための基準となるべき、もっとも暗い次元を徴づけているように思われる。
田中純