ゲームにとって音とは何か
聊か古い話題で恐縮だが、一昨年、2016年に《Beep:A Documentary History of Game Sound》なるかなり特殊なテーマの映画が公開された事をどれ位の方がご存知だろうか。ビデオゲームのサウンド制作に関わる80余名へのインタビューが二時間に亘って続くこのドキュメンタリーは、元々一人の女性研究者が、ビデオゲームサウンドの歴史を作り手側の証言によって一冊の書物に綴ろうとしたことに端を発する。それがKickstarterでの資金集めなどを経て、最終的に研究者自身が監督を務める一本のドキュメンタリー映画へと至ったのであった。筆者は遅ればせながら最近漸くこの映像を手に入れ、まずはそのタイトルに「ゲームサウンド」の歴史と銘打たれていること、(例えば、これに先立ってRed Bull Music Academyから公開されていた同様のインタビュー主体のドキュメンタリー*1は、一貫してゲームミュージックの番組であることが謳われていた)、そしてその歴史がペニーアーケードやピンボールマシンから紐解かれていく様に、彼女の研究者としての変わらないスタンスを透かし見る思いがした。彼女の名はカレン・コリンズ(Karen Collins)。今から丁度10年前、まさに《Game Sound》と題された著作を世に問い、この分野の学術研究の端緒を開いた人物である。彼女は「ゲーム音楽」なるコンテンツジャンルが国際的にそのプレゼンスを高めていく中、敢えてビデオゲームの聴覚的側面の総体を「ゲームオーディオ」として捉えることで、この新しくも魅惑的な対象を学術的議論の中に(恐らくはかなり適切に)取り込むことに成功したのである。
さて、本稿は彼女の《Beep》に関してレビューを試みようというものではない。ただ、《Beep》が偶然思い起こさせてくれた彼女の記念すべき著作を10年を期に再び手に取りながら、改めて「ゲームサウンド」なるものについて自由に思いを巡らせてみたいと思うのである。
「ゲームサウンド」という名と概念はまず間違いなくビデオゲーム以降に生まれたものである。この語は第一義には「ビデオゲーム・サウンド」の事を指し、ビデオゲームのプログラムに書き込まれ、ゲームプレイに伴って再生される音響を指し示すだろう。しかしコリンズは、それが独自のディシプリンを要求する根拠として必要な、他ジャンル(例えば映画)の音響/音楽との本質的な差異を「ゲーム」(或いは「あそび」)の音響である事に求め、歴史を遡ってゲームマシン及びアミューズメントマシンにその起源を置いた事で、「ゲーム一般におけるサウンド」へとその概念を拡張したことになる。しかしながら「ゲームおける音」とは一体何なのか?
翻ってビデオゲーム以前の古典的ゲームを思い浮かべると、そこには「ゲームサウンド」なるものが驚くほど不在である事に気が付くだろう。勿論、ゲームプレイに際して音は生じるであろうが、例えばチェスや将棋の駒が盤に触れてどの様な音を立てようとも、それはゲームとは無関係の事とされてきたのだ。ダイスを振る音、カードを切る音が勝敗を左右するようなルールも少なくとも一般には普及していない。或いは長い西洋音楽の歴史の中でチェスプレイの為の音楽が競って書かれ、その様式が確立した事があっただろうか?同じく我々は碁や将棋の為に作られた名曲を有しているだろうか?つまり古典的ゲームのレパートリーには、そのゲームの為にデザインされた音響/音楽というものが殆ど見当たらないのである。これは一方で、ゲーム的なものの類縁概念である「あそび」において常に音や音楽が重要な関係を持っていた事を思えば不思議な感じがしないでもない。人が産まれて最初に手にするおもちゃは、耳に心地良い音をたてるガラガラ玩具であり、かのアリストテレスは音楽を青少年のためのガラガラ玩具に喩えていた*2。そもそも音をたてること、歌にならない歌を口ずさむこと自体が一つの「あそび」ではなかったか。しかしこの自由な「あそび」が規則や形式を洗練させた「ゲーム」や「競技」に近づくにつれ、言い換えればロジェ・カイヨワの言う*3「パイディア」の極から「ルドゥス」の極へと向かうにつれ「音」は前景から退いていくのである。快い良い音を立てそれに耳を澄ます「あそび」は辛うじて、榧盤の厚みに共鳴する駒音や象牙の牌が触れ合ってたてる軽やかな音色に興を感じる文化に見出すことができるのかもしれない。それらは言わば「玩具の手触り」と同じ次元でなら、デザインされたものと見なせるだろう。しかしゲームサウンドがただそれだけのものであったのなら、恐らく研究の為の自立したディシプリンが必要とされることはなかっただろう。ビデオゲーム・オーディオ研究が前提としているのは、ゲーム/あそびに於いてより積極的な役割を担うようデザインされた音響の存在であり、単にゲームプレイに伴って生じたという意味で「ゲームにおいて在る」音響ではない。そしてゲーム/あそびがその様なデザインされた音響と新しい結びつきを得たのが、正しくもコリンズが指摘するように、19世紀以降の様々なテクノロジーによる娯楽機械に於いてであったと言える。
新しい時代の「音」と「あそび」との最初の出会いは、コイン式自動フォノグラフ(そして蝋管式ジュークボックス)だった。これらはエルキ・フータモが指摘するように*4、コインを対価として「音楽」や「演説」を購入する装置ではなく、コイン投入による自動機械とのインタラクションを楽しむ娯楽装置だったからである。このコイン式ガラガラ玩具は、アミューズメントマシン業界によって業務用娯楽機械史の起源的位置づけを与えられることにより、「あそび」と音響/音楽との本来的な結びつきの強さを再確認させてくれるものとなった。では、より狭義の「ゲームマシン」に関してはどうだろうか?先行のスロットマシン研究などを引きながらコリンズが最初に取り上げた「ゲームサウンド」は、お客の注意を惹き付ける為の呼びかけの音響と、ゲームにおける「成功」や「勝利」の感情を生み出す音響の二種であった。前者については、確かに後のアーケード・ビデオゲームのデモ音声などに同種のものを見出す事ができるが、その機能は「ゲーム」である事よりはむしろ商業用娯楽機械としての本質に拠るものであろう。対して、後者の指摘はより示唆的である。ギャンブル・マシンを筆頭に当時の娯楽機械のサウンドの多くはプレイの「成功」と結びついていた(大当たりを告げる鐘、勝利のファンファーレ)が、これらは商業用ビデオゲームの初期から見られる特殊ボーナス獲得時に鳴る効果音やジングルに通じるものである。しかしここで重要なのは、このサウンドが単にプレイヤーにゲームでの「成功」を知らせるシグナルであっただけでなく、同時に「成功」や「勝利」の感情そのものを作り出す機能を担っていたという事である。それ自体がポジティヴな感情を引き起こす効果を持つ音響は、ゲームプレイの「報酬」として機能し、(その報酬に相当する「成功/勝利」を目指す)更なるプレイへのモチヴェーションを生み出す。今日のビデオゲームサウンドの理解にも必要な、プレイヤーに対してゲームの音が持つ機能の「重層性」(例えばここで問題になっている様な、ゲームメカニクス上の情報を伝達し適切なプレイを誘導する記号的な側面と、情動等に働きかけ主観的なプレイ経験の質に影響を与える感性的な側面との二重性)を、その起源にまで遡って指摘して見せたのである。
*4 Erkki Huhtamo, “Slots of Fun, Slots of Trouble. Toward an Archaeology of Electronic Gaming” 2005.
さて、コリンズに示唆されて「ゲームサウンド」の来歴を振り返ってきた我々は、ここにきて漸く「ビデオゲーム・サウンド」固有の問題へと移る事ができるだろう。それは当然ビデオゲームそのものの固有性と深く関わるものである。ビデオゲームをこれ迄の古典的(非電源系)ゲームとも機械仕掛けや電気仕掛けのアミューズメントマシンとも大きく隔てる本質的特性の一つに、デジタル映像を描出するビデオ・スクリーンの存在がある。これによってゲーム(或いはあそび)の場がスクリーンの「向こう側」に一つの自立した「世界」として生じ、それがスクリーンに描かれ、表現されるのである。今仮に「向こう側」と表現したが、正確にはプレイヤーが遊ぶ身体を何処に、どの様に位置づけているのかには様々な仮説が存在する。が、何れにせよここで大事なのはプレイの場が「いま、ここ」とは別の時空に生じている事をビデオゲームが直観させるという事である。これはオーディオ面においても、自分の生の身体がプレイに伴ってたてる音響が、全く「ゲームサウンド」として聞こえなくなる、という現象から確認する事ができる。次に同じく重要なのは、この自立性を高めたゲームの場が、映像を中心としたマルチモーダルなチャンネルを通して「表現される」ものであるという点である。この特性はビデオゲームに一つの高度な表現形式たる可能性を付与すると共に、これを他の表現ジャンル(物語、映画等)と不必要に似させてしまう事で、研究者に論争の種を供給し続けもした。このゲームの場である「世界」を表現する役割は、ビデオゲームサウンドを考える上でも避けることの出来ない本質的なものである。たとえば明確な音付けのされた世界最初のビデオゲーム《Computer Space》(Nutting Associates 1971)は、そのフライヤーにはっきりと“Space Battle Sounds”として爆発音やエンジン音が搭載されていることが謳われていた。つまりビデオゲームサウンドの最初の役割は宇宙戦争という一つの「フィクション」を描写する事だったと言えるのだ。コリンズは黎明期の多くのアーケードゲームのフライヤーで「リアルな」音響が売りにされていた事を指摘するが、まさにそれは虚構世界の事物に音を与え「リアリティ」を高める機能がゲームサウンドに託されていた事を示している。彼女の歴史観にとっては少々都合が悪いかもしれないが、スロットマシンにもピンボールにも無かった新しい必要性からビデオゲームサウンドは始まっていたのだ。
従って、たとえ一見、特殊ゲーム的なものから後退する様に見えても、ゲームオーディオの理論研究がまずは映画研究から導入されたDiegetic/Non(Extra)-Diegetic Sound(物語世界内の音/物語世界外の音)という対立概念を巡って議論を重ねて行く事になったのもある種の必然だったと言える。ゲームの場の虚構世界に鳴り響く音(登場人物の発話、宇宙船の爆発音)と、それとは別の時空に在ると思われる音(ボーナス獲得やステージクリアを知らせるジングル、様々なBGM)とを一度切り分けてみる事。恐らくは、こうする事で後者のカテゴリの中により特殊ゲーム的なサウンドが明確な形で見出される可能性もあったのだろう。しかしすぐに多くの研究者にとっての課題は、この借り物の概念に如何に手を加えてゲームオーディオ分析に相応しいものにするかという事となった。ある者は多様なゲームジャンルをカバーする為にdiegeticの概念に手を加えて分類項を増やし*5、ある者は「音の所在」に着目するこの指標だけでは不十分とし、新たな対立項を導入した*6。またある者は、前述した、ゲームに関わる情報を直接プレイヤーに伝えるゲームサウンドの機能が、伝統的な物語世界像とは相性が良くない事を指摘する*7。例えば、よくあるホラー映画では、人々の背後にゾンビが忍び寄り、不安を煽るBGMが流れ始めても、それは哀れな犠牲者の耳には届かず、そのまま彼らはゾンビの手にかかる。一方、ある種のゲームでは敵のゾンビが一定距離に近づいたことでキューが入り、BGMが切り替わる事で、たとえそれが背後からの襲撃であっても、プレイヤーは察知する事ができ、ゲームキャラクターは事無きを得る。後者のケースで起こっているのは、物語世界の外で生じていたはずの音響が、プレイヤーを介して最終的に物語世界の展開に影響を与えてしまっているという捻じれた現象である。この様な指摘を行ったクリスティーネ・イェルゲンセンは後に、ゲームの場となる「世界」は伝統的な物語世界概念では上手く捉えられないとして、diegesisをそれとは独立した「ゲーム世界(game world)」という概念に置き換えた上で、ゲームサウンドを全てゲームプレイに必要な情報をプレイヤーへ伝達する機能を担った聴覚的「インターフェース」として捉え直す新しいモデルを提出した*8。彼女の問題意識の根底にあったのも、一見、diegeticな虚構世界の描写に見える音響が、同時にnon-diegeticに位置づけられるプレイヤーにシステム情報を伝えているというゲームサウンドの一つの「重層性」(これはまさに、先程の捻じれの指摘と並んで、diegetic/non-diegetic概念を導入した事によって炙り出されたゲームオーディオの特殊性の一つである)であったのだが、それを彼女は後者の機能をゲームにとってより本質的なものとすることで敢えて一元化を図ったのである。彼女はこれによって「物語」を中核に置くdiegesis概念からの脱却をはかり、新しくより特殊ゲーム的な視点からのゲームサウンドの空間分析*9へ移行したのだ。
*5 Mark Grimshaw, The Acoustic Ecology of the First-person Shooter, 2008. など
*6 例えばRichard van TolとSander Huibertsはdiegetic/non-diegeticの軸に、プレイヤーのアクティヴィティに関わる音響とゲームの場に設定される音響という新たな対立軸を直行させ、四象限にゲームサウンドを分類するフレームワークモデルを提出した(https://www.gamasutra.com/view/feature/131915/ieza_a_framework_for_game_audio.php)。またCollinsもプレイヤーの操作に直接反応する音響/ゲーム世界の展開に従って変化する音響という分類項を独立に設けて、分析ツールとしての併用を提案している(An Introduction to the Participatory and Non-Linear Aspects of Video Games Audio 2007)。
*7 Kristine Jørgensen, “On transdiegetic sounds in computer games”, 2007.
*8 Kristine Jørgensen, “Time for New Terminology? Diegetic and Non-diegetic Sounds in Computer Games Revisited”, 2010.
*9 Jørgensenのモデルは聴覚的インターフェースを「ゲーム世界」への統合度合いによって分類するものであった。これに従えば、これまでdiegetic soundsとされていたものは「世界」への埋め込み度が最も高いインターフェースであり、逆に明かなnon-diegetic sounds は統合の程度が最も低いインターフェースとなる。
イェルゲンセンが行った物語性中心からゲーム性中心への一大転換の意義は決して小さくは無い。しかしながら、ゲームにおいて在る音を「世界」を構成する音とゲームシステム・メッセージとの二重の意味において捉えるのではなく、原則として後者の情報として処理されることを前提としたゲームオーディオ=インターフェース論は、それ自体は明快で十分な説得力があるものの、ゲームプレイの実態に即しているかどうかには筆者には幾つかの点で疑念があった。まず歴史的に見れば、先述の通りまずは虚構世界を構成する機能をデザインされたと思われる音響があり、その後、重要な記号機能を担った音響が両者の混同を注意深く避ける形で徐々に導入されていった*10と考えられる点。そして受け手側から見ると、新しい「ゲーム世界」の認識に際しては、現実世界におけるのと同じ形で聴覚による世界構成が行われているのでは(これには「世界内」にも聴取点が必要である)と考えられる点である。これは先にも触れた、ゲームの「世界」にプレイヤーがどの様に関与し、如何にしてアイデンティティや身体感覚を形成していくのかという大問題に関わる。筆者がここで念頭に置くのは、一つの有力な仮説として存在するプレイヤーキャラクターやアバターをゲームの場(空間)へと拡張された身体として捉えるモデルである。これは自己の身体の境界が、学習等によって再構成可能であるという認知心理学研究の成果を土台にしている。もしこれが正しければ、この身体感覚の拡張には聴覚も必ずや関わっているだろう。実はこれに関しても既にコリンズ(再び!)が重要な示唆を行っている*11。彼女が取り上げるのは「自己発生音」を聴くという(触覚と聴覚の)プロセスによる自己と世界との境界形成である。そして彼女は、自身がインタラクティヴ・サウンドと名付ける、プレイヤーのアクションに即座にフィードバックするサウンドが、キャラクターを介して一種の自己発生音として捉えられることで、キャラクターの身体を「わたし」の身体として認識するのに大きな役割を果たすと考えるのである。この時、マリオが壁に当たる音、コインに触れる音は「わたし=マリオ」がその「世界」の中で確かに鳴り響かせる音として聞かれているだろう。マリオのジャンプ音が如何に現実離れした音であろうとも、それはその「世界」固有の「リアリティ」を構成しているのである。
*10 但し《Pong》(Atari 1972)の得点/失点時のサウンドは重要な例外として挙げられるだろう。
*11 Karen Collins, Playing with Sound. A Theory of Interacting with Sound and Music in Video Games, 2013. Chapter 2
よって筆者はイェルゲンセンとは異なり、あくまでもゲームオーディオの機能/情報の多層性を重視しつつ、むしろプレイヤーが生身の耳とキャラクターの耳との二つの聴取点を巧みに使い分けて情報を処理していると考える。聴覚の重層化、この能力はビデオゲームプレイやその他の視聴覚メディアとの接触経験を通して学習される一種の聴覚的リテラシーだと考えられる。
コリンズの《Game Sound》に始まり、大きな迂回を挟みつつ、黎明期のゲームオーディオ研究を振り返ることで、結果としてビデオゲームにおける音が持つ固有性の幾つかを本稿でも紹介する事が出来たと思う。ビデオゲームにおいて「音」は①ゲームメカニクス上の重要な情報をプレイヤーに伝達する記号として、②ゲーム/あそびの場である「世界」とそこにおけるプレイヤーの「身体」とを共に構築する要素として、③プレイヤーの感性や感情に直接働きかけ快不快を生む美的なものとして、要請されている。そして一つの音響/音楽が同時にこれら複数の役割をこなすという「重層性」が重要な特性として指摘された。しかし当然これはビデオゲーム・オーディオ研究のスタート地点に過ぎない。重要なのは①~③それぞれに関して具体的な作品分析を積み重ねながら詳細を明らかにし、より精度の高い理論を導く土台をまずは築くことであろう。これらはゲームジャンルによっても全く異なる理論や認識モデルを要求してくる可能性が高いのである。
ゲームの為の作曲や「ゲーム音楽」について熱く語る《Beep》のインタビューを後目に、本稿は結局、音楽については何も触れてこなかったが、これは今日までのゲームオーディオ研究の大勢とパラレルでもある。その点でもまだまだこの分野は始まったばかりなのだ。かつて映画音響研究家のミッシェル・シオンは、「映画音楽」なるものは存在しないと述べたが*12、筆者は「ゲーム音楽」に関してはそれほど悲観的ではない。「ゲームにおいて在る音楽」以上の意味を持った特殊ゲーム的な音楽の存在を、今後のゲームオーディオ研究が指し示せる日が来るのではと信じている。これに関してはまた次の機会に譲ることにして、今は筆を措きたい。
*12 Michel Chion, Le Son au cinéma, 1985. (邦題は『映画にとって音とは何か』)