パフォーマンス&トーク バーレスク、狭間の芸術
日時:17:10-18:40
場所:武蔵大学江古田キャンパス1号館地下 1002教室
バーレスク、狭間の芸術~バーレスク・パフォーマンス&トーク
ヴァイオレット・エヴァ(紫ベビードール代表)
【聞き手】北村紗衣(武蔵大学)
今回の研究発表集会の掉尾を飾ったのは、バーレスクのパフォーマンスであった。バーレスクはさまざまな演芸・技芸が組み込まれた、ストリップティーズを基本とする芸能である。会場には文献・画像資料の他、パフォーマーの持ち道具やきらびやかでセクシーな衣装が並べられて会員の参考に供されていた。北村紗衣によるバーレスクの概説、問題提起を挟み、実際にパフォーマーであるヴァイオレット・エヴァが登場し、武蔵大学の大教室でパフォーマンスを披露したわけであるが、以下、この一見スキャンダラスにも感じられる出来事──学会会場で、女性が脱衣しながら踊るという──と議論によって明らかにされた事柄について報告したい。
裸に近い女性の姿を人々が見る、という図は性の商品化のイメージがつきまとうが、現在では先端的でフェミニスト的な芸能としての見方がなされているという。バーレスクは北村の言葉で言えば「とらえどころのない芸術」である。北村により、バーレスクの定義や歴史、それを踏まえての考察が報告された。とらえどころのないバーレスクをそれぞれが捉えるためのガイドラインが示された形である。バーレスクの技術的背景やファンダンス・バルーンダンスなどの出し物の種類が動画とともに紹介された。ヴィクトリア朝にさかのぼるというバーレスクの始発から、裸体表現の一般化による衰退を経てのニュー・バーレスク誕生までが振り返られた。現在の隆盛は1990年代以降のニュー・バーレスクからの流れである。
ニュー・バーレスクの「ニュー」は何を指すかについて、北村は、音楽を中心にスタイルがアップデートされたこと、過去の偉大な女性アーティストを参照・称賛するというノスタルジーを含み持つこと、性別や性的指向を問わない雑多な観客を持つようになったという客層の変化、フェミニズムやクィア理論との関わりを挙げた。
ニュー・バーレスクとなって以降、顕著になったであろう「わけのわからなさ」は裸体をどのように意味づけるかに関わる。「女性が舞台に出てきて服を脱ぐショーをするという点では同じなのに、なぜストリップは「搾取」に見え、バーレスクは「芸術」に見えるのか?」 (ジャッキー・ウィルソン、北村の資料による)。バーレスクで露わになるものとして挙げられたのはステージと客席の間の権力闘争である。客の権力(見る力) vs 演者の権力(見せる力)、gaze(まなざし)の主導権争い。このことは、ヴァイオレット・エヴァの語ったことと合わせ、後述することとしたい。
ニュー・バーレスクはフェミニズムの問題系と深く関わっているという。まずもってパフォーマーやファンがフェミニスト的関心を明言している。(女性同士は何かと分断されがちであるが、)女性同士の連帯、先輩のパフォーマーへの敬意が重視されるとのことである。また、バーレスクは体型や人種、年齢というカテゴリで、一般的に流通する「美」の型に揺さぶりをかける。例えば、(「年老い」ていても)レジェンドのパフォーマンスには深いリスペクトを寄せ、高い価値が置かれるなどである。オーディションポリシーに、豊胸やポルノ的なものが不可とされるのも、これまでに流通してきた(=男性中心的な)女性の美の型にバーレスクのパフォーマンスを沿わせることを拒否する姿勢を見て取ることができるだろう。
とは言え、バーレスクの根幹にはエロティシズムがあるということは動かせない。「露骨なポルノグラフィや性差別的・攻撃的な性表現に対するアンチテーゼ」をなしつつ、「セクシュアリティを肯定的に楽しく表現する芸術だと考える動き」(北村資料)と見ると、まずはバーレスクを捉えるための線が引きやすくなるだろうと思われた。バーレスクにはそれで食べていけるパフォーマーは少ないという(対してストリッパーはプロ)。食べるためというより、そのウエイトを自己表現のためにおくパフォーマンスとしてバーレスクはあると考えられるのもその一つの証左と見ることができるだろう。
登場したヴァイオレット・エヴァによるパフォーマンスは学会会場にいる私たちをまさに挑発した。階段教室の階段をくだりながら、私たち観客をteaseしていく。どのような顔をしていれば良いのか、当初はとまどいを感じた会員もいたのではないかと想像される。あでやかな衣装をまとって自分の身体を目もあやに用い──あまつさえそれはじょじょにむき出しの形になるのだ──観客を強いまなざしで見つめるパフォーマーに対して。とまれ、この「とまどい」こそが、このセッションが俎上に乗せようとしていたものの中心的な事柄の一つなのである。私は、ヴァイオレット・エヴァのパフォーマンスを見て、バーレスクに魅了される女性たちが多くいるというのに納得し、2曲目を見る頃にはキラキラした衣装を着け(そして脱ぐ)ヴァイオレット・エヴァの巧みな技芸と自信に満ちた強いまなざしにすっかり引き込まれた。
北村を聞き手としたヴァイオレット・エヴァのトークで、印象に残ったエピソードを挙げたい。これまで最も辛かったのは「地下アイドルオタク」のイベントでのパフォーマンスであった、というものである。観客たちはみな舞台から目をそらし、殆ど憎悪といってよい表情を浮かべ、中には嘔吐しそうになる者もいたという(こうした反応にはストリップの客にも共通点があるとのこと)。先に、バーレスクではステージと客席の間の権力闘争、gazeの主導権争いがむき出しになるというトピックを挙げたが、ヴァイオレット・エヴァのエピソードはこのことをよく表している。舞台上のストリッパーは通常、観客と目を合わせない。見る側(権力を持つ者)は客席にある、ということが「設定」としてある──ということが、こちらを見るバーレスクのパフォーマンスによって曝されるのだ。地下アイドルという存在は、「未熟」で、これから「育てられる」べき存在としてある、つまり見る側を問い返すような力はないものとされているが故に安心して見ることができることになっている。そのことが女性の裸を見せながら、観客を見、問い返す(そして、大人の女が自分の美意識や創意を表現する)バーレスクによって曝されてしまったがゆえの、彼らの(とても正直な)不快感なのだろう。
「女」の裸は、誰にも見返されないところでならば喜んで見、安心して消費できるが(その「女」のカテゴリには体型や人種や年齢の、明言はされぬ「設定」がある)、それを誰かに見返されていたとしたら途端に落ち着かなくなり、目を覆わねばならぬどこか陰惨なものでしかないのか。裸は、誰のものなのか。ヴァイオレット・エヴァがパフォーマーになった動機に、なぜ男の裸は面白がられるのに、女の裸は目を覆いたくなるのかという問いがあったと話していた。北村のまとめに示されたようにバーレスクは作品ごとに表現したいテーマがあり一般化は困難であろうが、バーレスクという芸能によって曝され、我々に問われることが極めて明確になったセッションだった。
斉藤昭子(東京理科大学)