研究発表4
日時:15:20-16:50
場所:武蔵大学江古田キャンパス8号館5階 8501教室
風流作り物の思想──〈洲浜〉を出発点に
原瑠璃彦(青山学院大学/日本学術振興会)
大江健三郎作品における異界表象──「『罪のゆるし』のあお草」を中心に
菊間晴子(東京大学/日本学術振興会)
【司会】番場俊(新潟大学)
なんとなく地味にもみえる二本の報告で、最初はどうなることかと思ったが、終わってみると、控えめに言って、とても面白いセッションだった。
原瑠璃彦氏の報告は、祭礼や儀式の場において重要な役割を果たした「風流(ふりゅう)作り物」と呼ばれる造形物をめぐるもの。ごくおおまかにはハレの席に置かれる箱庭のようなものを思い浮かべればよいのだろうか。使用後は保存されずに解体される一回性を運命づけられていたため、資料が文献や図像に限られ、研究もあまりされてこなかったという。「洲浜台(すはまだい)」は洲浜の海岸線をかたどった台であり、賀歌と組み合わされて贈与されたり、歌合における舞台装置となった。原氏は、この風流作り物の歴史のなかに、拮抗する二つの表象原理を見いだす。「見立て」という言葉のうちに端的にあらわれている「垂直性」への志向と、洲浜の「水平性」である。原氏は、「見立て」とはそもそも神の依り代であり、ある人工物を眼の前に立てて現前させることで、そこに現前していない/見えざるなにかを顕現させようとする想像力の働きと考える。そこで優勢になるのは、郡司正勝が入念に調査した「山」のモチーフだ。だが原氏は、こうした山や木のミニチュアにつねにともなっていた白砂清松のモチーフに注目する。京都御所紫宸殿や伊勢神宮に通じるこの白砂の空間は、海辺に作られた産屋の砂がそのつど取り換えられたように、一回限りの清浄さを特徴としていた。原氏によれば、洲浜は海辺の光景の再現=表象であり、この水平の「座」こそが、「見立て」の垂直的構造物を可能にする条件となっていたのである。だが、この「条件」は次第に忘れられる――海の彼方から来る神という信仰が時代とともに変化して、山から来る神/空から来る神の信仰へと変わっていったように、風流作り物においても山の表象ばかりが拡大されて継承され、海の作り物は忘れられていったのである。
対象もアプローチもまるで異なる菊間晴子氏の発表は、しかし、想像力に働きかける「場所」の力への注目において、期せずして原氏の報告と共鳴しあうこととなった。四国の森の谷間の村で「神隠し」にあった幼少期の経験を『同時代ゲーム』(1979年)で語った大江健三郎は、短篇「「罪のゆるし」のあお草」(1984年)で再びこの体験をとりあげる。そこで描かれることになるのは、谷間の村の神である「壊す人」(大江はつねにこの語をゴシックで表記している)と、神がかりに陥った幼い「僕」とのあいだに成立する親密な関係だ。だがここには『同時代ゲーム』には見られなかった要素が付け加わっている。「神隠し」から半死半生で連れ戻された「僕」を癒すために母親が煎じて飲ませる「ゆるし草」だ。ウィリアム・ブレイクの詩を読みながら幼少時の経験を反芻する現在時の語り手は、そこに「罪のゆるし Forgiveness of Sin」に関するブレイクの独特な見解を重ね合わせようとする。菊間氏はこの描写に、異界における謎めいた超自然的存在としての「壊す人」から、ブレイクの救い主イエス観の主軸をなす「神なる人間性 Divine Humanity」(『新しい人よ眼ざめよ』1983年)へと、神的存在をめぐる考察の中心をゆるやかに移動させようとする大江の試みを読み取る。こうして「「罪のゆるし」のあお草」は、謎めいた超越的存在が潜む「異界」でもあれば、人間の魂がつねにそこに帰っていく「罪のゆるし」の場でもある「森」をめぐる物語となる。菊間氏の発表は、氏が2016年10月におこなった愛媛県喜多郡内子町大瀬(大江の郷里)での現地調査の報告で締めくくられた。会場のスクリーンいっぱいに投影された森の谷間の写真は、たしかに、大江を読んだ私たちを少なからず動揺させるものであったに違いない。
つづく質疑応答で話題になったのは、当然のことながら「場所」の力であり、表象における垂直性と水平性の葛藤という問題系であった。原氏の報告にあった「見立て」は、当然、ハイデガーが「前に(vor-)—立てること(stellen)」と分解してみせた西欧的な「表象 Vorstellung」の概念との関係という問いを招き寄せるし、伊勢神宮の白砂でもある洲浜は天皇制と芸能の関係というやっかいな問題を提起せずにはおかない。山と浜について、権力と穢れについて、三島と大江の天皇制について、大江が偏愛した「斜面」について、活発な議論が交わされたが、しかし、このセッションに参加した私たちにひときわ印象深かったのは、疑いもなく、フロアの高辻和義氏による異例の介入であったろう。大瀬からほど近い土地に生を享け、世代的にもほぼ大江と重なる高辻氏が、不意になにものかに憑かれたように幼少時の神事の経験を語りだす。眼の前でぐるぐる回る「鬼」を見守りながら観客が次第にはいりこんでいく「つくりごと」の劇的体験を語る氏の言葉の生々しさ。それは、司会として口出しすることも憚られるようなものであり、「神話」がいま、私たちの眼の前でまぎれもなく生きていることを実感させてくれる、稀有の経験だったように思う。
番場俊(新潟大学)
【パネル概要】
風流作り物の思想──〈洲浜〉を出発点に
原瑠璃彦(青山学院大学/日本学術振興会)
風流作り物とは、祭礼や儀式の場において中心的な役割を果たす造形物であるが、その大きな特徴として、使用後は保存されない、一回性に基づくという点があり、これらは古代から現代にいたるまで、日本的な表象の一系譜を構成していると言える。風流作り物に関しては、これまで郡司正勝、辻惟雄、佐野みどり等による研究があるが、そこで扱われる対象が近世以降の事例に集中しがちであること等、問題点は多い。
日本における風流作り物の端緒は、平安時代中期の内裏歌合において盛んに用いられた〈洲浜〉である。本発表では、先行研究において十分に扱われてこなかった〈洲浜〉を主な対象とし、風流作り物の起源を考察することによって、その系譜を新たな視点から読み直そうとするものである。ここで主なポイントとなるのは、①従来は、風流作り物における山の表象ばかりが論じられたが、その起源においてはむしろ海辺の表象の意義が考究されるべきであること、②風流作り物の一回性を、造形美術の分野のみならず、庭園、建築、芸能、民俗学などを踏まえた広い視野のもとで考察すること、③それがパフォーマンスにおいて果たした機能、とくに祝言性と関連して果たした機能を解明すること、の三点となる。これによって、日本における風流作り物の思想の核心に迫るとともに、時代ごとに様々な意味をになった「風流」の思想を明らかにすることが本発表の目的である。
大江健三郎作品における異界表象──「『罪のゆるし』のあお草」を中心に
菊間晴子(東京大学/日本学術振興会)
小説家・大江健三郎が『群像』1984年9月号に発表した短編「『罪のゆるし』のあお草」には、語り手「僕」が四国の谷間で過ごした幼年・少年時代の回想が記されている。谷間の村の創建者であり、その高みに広がる森に存する神である「壊す人」とのシャーマニックな交感によって、幼い「僕」の肉体および精神は、たびたび特異な状態へと誘われたのである。
このような、いわば「神がかり」的経験の描写は、谷間の村に生きる人々の日常と、「壊す人」の属する異界との関係性を考える手がかりとして重要である。この作品に示された、「神がかり」が引き起こされる場の地形的特徴と、そこで「僕」の身体や心理状態に生じる変容についての緻密な描写は、大江が70年代末から90年代半ばにかけて探究した、死と再生、そして信仰にまつわる問題系と密接に結びついている。また、『同時代ゲーム』(1979)以降の多くの大江作品に登場する「壊す人」の、山神としての性格が強調されていることも注目に値する。
そこで本発表ではまず、「『罪のゆるし』のあお草」に挿入される、「僕」の「神がかり」経験にまつわる回想が、作品構成上いかなる役割を担っているのかを考察する。その上で、この作品における「神がかり」の描写を、関連する他作品にも目配りをしながら分析することで、大江作品における日常と異界の重なり合いの様相を明らかにすると共に、「壊す人」という神的イメージの成立背景に迫る。