第12回研究発表集会報告

基調講演 死を〈見せる/見せない〉 ──アニー・リーボヴィッツがスーザン・ソンタグを撮る

報告:香川檀

日時:13:20-15:00
場所:武蔵大学江古田キャンパス8号館5階 8503教室

死を〈見せる/見せない〉──アニー・リーボヴィッツがスーザン・ソンタグを撮る
カタリーナ・ズュコラ(ブラウンシュヴァイク美術大学)

【コメンテータ】田中純(東京大学)


ドイツより、美術・写真・映像の比較メディア論が専門のカタリーナ・ズュコラ氏(ブラウンシュヴァイク美術大学教授)を招いて基調講演をしていただいた。

西洋では,死者の亡骸に美粧をほどこし写真に収める没後写真が十九世紀後半に盛んとなり、死の脅威や遺体の醜さを覆い隠しつつ死者をイメージとして顕彰する重要な役割をはたしてきた。そもそも写真理論において、写真と亡骸とは構造的にパラレルな関係にあり、写真メディアのなかにはすでに死が潜んでいることが指摘されている。死というそれ自体は表象不可能なものを屍体の写真として可視化する死者写真は、死の表象と認識の臨界点を示しているといえる。では、社会慣習として使用された死者写真ではなく、芸術として撮られた写真では死の表象はちがった位相を見せるのだろうか。没後写真と芸術写真に関わる浩瀚な二巻本『写真の死』を著したズュコラ氏が、本講演で取り上げるのは、写真家アニー・リーボヴィッツがパートナーだった死の床のスーザン・ソンタグ(2004年12月没)を撮った一連の写真である。ズュコラ氏は、もともとこれを著書の第三巻に収録する予定で論文を執筆したが、リーボヴィッツによる写真の掲載拒否にあって頓挫したことから、死者の写真を「見せない」という行為の意味を探る、さらなる探求のテーマとしたものである。

リーボヴィッツはそれらの写真を2006年に、他の家庭生活の写真とともに写真集『アニー・リーボヴィッツ——ある写真家の人生 1990-2005年』と題して出版し、同時に各国を巡回する同名の展覧会も開催した。写真集は、この展覧会カタログであると同時に、ソンタグの追悼の書であり、家族アルバムであり、なによりリーボヴィッツ自身によって添えられたテクストによって写真家のヴィジュアルな自伝となっている。ソンタグが息を引き取ったあと、彼女の亡骸を撮影した一連の写真はとくに印象的である。棺台の上に載せられた遺体の細部を、リーボヴィッツは1カットずつクローズアップで撮っている。シークエンスの最後から2枚めは、亡骸から視線を逸らして遺体安置所の部屋の一隅が写され、最後の1枚は、ディテールの写真をつなぎ合わせて横たわるソンタグの姿を再現した、いわばモンタージュ写真になっているのだ。これら一連の写真は、晴れ着の死装束でいかに美化しようとも生前のソンタグの面影をまとまった全体像として再現できないという、没後写真による故人の似像の失敗をも主題化していると考えられる。ただし、生前のソンタグが、自分の見たものをリーボヴィッツにもぴったり同じ位置で見るよう促す、いわば「視線の同一化」を求める人であったことを考慮するならば、リーボヴィッツの写真集は、そのなかにソンタグの視覚的自伝もが沈殿する、いわば二人の共作であったと考えられるのである。

以上のズュコラ氏の講演に対して、田中純氏(東京大学教授)によるコメントでは、没後写真が、アビ・ヴァールブルクのいうイメージの死後の生(Nachleben)を死者に付与するものであることが指摘された。さらに田中氏は、リーボヴィッツによるソンタグの没後写真の公開が、ソンタグの息子であるデヴィッド・リーフにより「屈辱」として非難された事実を指摘し、問われているのは死者のイメージに関わる「尊厳」であり、それが差し向けられる「社会」とはいかなる「共同体」であるのか、と問題提起する。ジョルジュ・ディディ=ユベルマンは近著『受苦の時間の再モンタージュ』で、古代ローマにおける祖先の顔のデスマスクとその複製とが、商品化の外部におかれた解放的な性格をもつがゆえに「尊厳」と「系譜」への要求をおびるものであったことを指摘している。リーボヴィッツによる写真集や展覧会に伴うソンタグのイメージの「商品化」と、屍体写真の転載・流通の拒否というイメージの「私有」の両面は、いかに解釈できるか。ひとつの可能性として、死者との視線の同一化、つまり「ソンタグの眼差しもリーボヴィッツの写真のなかに入り込んでいた」ことに注目するならば、亡骸のクローズアップ写真は、じつは死者への同一化であり、部屋の一隅に目を逸らしたカットは死者への同一化に耐えきれなくなったリーボヴィッツが生者の世界へと身をよじったことを意味し、最後のモンタージュ写真は死者のイメージを「生者たちの世界に取り戻す」ための作業であったと解釈できる。それが差し向けられる共同体とは、「死者たちとともにある共同体」であった、と結んでいる。

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ズュコラ氏は、本研究発表集会での基調講演を皮切りに、10日間の日本滞在中に全3回の講演を行なった。一週間後の11月18日には、京都大学「映画コロキアム」にて、本講演の内容に、死者写真の社会的使用についての補足を加えた講演「〈見せる/見せない〉——死者写真の社会的、芸術的な使用」が行われた。コメンテータの前川修氏(神戸大学教授)からは、まずハンス・ベルティング『イメージ人類学』における死者礼拝とイメージ論との比較がなされた。ベルティングの場合、死者のイメージ(メディウム)が観者の身体において受容され、生気付与されて内的イメージに変換されるという図式がある。対して、ズュコラ氏の方法論は、写真のインデックス性が焦点化され、その具体的・歴史的な使用の文脈のなかで「イメージ——屍体——知覚(棄却と接近)」という3要素からなる図式が設定されている、とまとめられる。問題提起としては、まず、①非西洋における死者の写真について。日本では、西洋のような没後写真というものは存在せず、生前に撮影される「遺影」の習慣も、ようやく1920年代になって始まった。写真の輸入後、数十年の間、死者の儀礼に写真は導入されていない。このイメージの不在をどう考えるか。②写真メディウム特有の知覚コードにも歴史性があり、例えばジェフリー・バッチェンは、被写体の髪の毛がケースの蓋の裏面に貼り付けられたダゲレオタイプ写真の存在から、19世紀後半には写真は現在ひとびとが考えているほど故人を再現表象する記号ではなかったのかもしれない、と指摘している。こうした歴史的偏差についてはどう考えているか。この2点について質問があった。

この2回の講演のあいだに、11月12日(日)には、お茶の水女子大学で開催された「イメージ&ジェンダー研究会」にて、ズュコラ氏によるもうひとつの講演、「皮膚のイメージ/イメージの皮膚——現代メディア論から読む70年代女性アーティストの写真表現」が開催された。ウィーンで活動したフェミニスト・アーティストのビルギット・ユルゲンセンは、1970年代から2000年代初頭までオブジェや絵画、そして身体の上にスライド投影した写真を制作し、そこでは女性身体の空間性と「皮膚」が重要なモチーフとなっていた。現代の写真メディア論をもとに当時の作品を読み直すと、新たな意味の生成を捉えることができるのである。コメンテータの小林美香氏(東京国立近代美術館客員研究員)からは、70年代ウィーンのフェミニスト・アートによる写真表現についてと、ユルゲンセンのプロフィールと作品の紹介が行われた。

今回のズュコラ氏の連続講演をつうじて、社会的に使用される写真と芸術写真の双方にまたがってその意味作用を理論的に分析する手法が紹介され、非常に示唆的であった。ズュコラ氏の著作が日本に翻訳紹介される機会が訪れることを願っている。

香川檀(武蔵大学)


【講演概要】

死を〈見せる/見せない〉──アニー・リーボヴィッツがスーザン・ソンタグを撮る
カタリーナ・ズュコラ(ブラウンシュヴァイク美術大学)

写真というメディアには、「死」というものの認識の臨界点が潜んでいる。写真家アニー・リーボヴィッツがパートナーである写真理論家スーザン・ソンタグの死を撮った写真は、この問題をよく示している。

リーボヴィッツは1994年からソンタグの没した2003年まで、カップルの関係にあった。彼女はソンタグが癌に冒され、臨終を迎え、息をひきとった直後の姿を逐一、写真に収めている。ソンタグの死後、リーボヴィッツは自身の自伝的な作品集『ある写真家の人生』(2006)や同名の展覧会でそれらの写真を公表しており、そこでは一歩一歩死に近づき、やがて死を迎える女友達の写真が圧倒的な存在感をもって提示されている。にもかかわらず、その後のリーボヴィッツは、写真の第三者による転載を一切拒み、代わりに写真をインターネット上に流出させているらしく見える。

本講演は、死者の写真を本や展覧会で「見せる」ことから、他人が勝手に扱ったり眺めたりするかもしれないなかで後から「見せない」ことにする、という態度変化がもたらす疑問について考察するものである。ここで起きた事態とは、死者を写真に撮るという行為においてリーボヴィッツ自身が実践した被写体の脱タブー化を、軌道修正するものなのか? 写真に撮っておきながらそれを使用させないというこのイメージ剥奪は、ソンタグの無傷な肖像(イマーゴ)を再生させようとする社会的ジェスチャーなのか? スーザン・ソンタグの没後写真のなかで、亡骸を華麗な死装束や周囲の設えというコードのなかに埋め込む/埋葬することと、その物質的な不在の前兆としての見るに耐えない姿とのあいだの軋轢のなかに、「なにも見せない/無を見せる」ことで未来を予示するあの死者写真のパラドクスがいかに立ち現れているのか?

この事例において、リーボヴィッツによる死せるスーザン・ソンタグの写真は、同時にまた、死の捉えがたさ(把捉不可能性)を併せ持っているのである。

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年2月26日 発行