PRE・face

研究者の「持ち歌」

香川 檀

最近、研究成果の発表ないし講演というものについて、つらつら思うことがある。

昨年(2017年)8月のある日のことだった。武蔵大学での研究発表集会を3ヶ月後に控え、基調講演を依頼したカタリーナ・ズュコラさんと打ち合わせをするため、南ドイツのボーデン湖畔にある別荘を訪ねた。スイス国境近くの古都コンスタンツから車で20分ほどの小さな村。眼下にボーデン湖を見下ろし、中世からの修道院を擁して島全体が世界遺産となっているライヒェナウ島を一望に見渡す庭園のテラスに腰掛けて、講演の題目を相談した。彼女はノートパソコンを開き、過去の講演の原稿とスライド・パワーポイントをスクロールしながら、これは国内の学術団体で出した本に書いたもの、これはハーバード大学で講演したときのもの、と言いながら内容のあらましを説明してくれる。

それは私にとって生涯忘れられない体験だった。ズュコラさんの名前は1990年代から知っており、いくつかの衝撃的な著作とともに、彼女が指導した学生の博士論文にも一度ならずお世話になったことから、いったいこのカタリーナ・ズュコラという人は何者なのだろう、とずっと気になっていた。それが縁あって今こうしている。しかも、彼女のパソコンの中を一緒に覗きこんで、その研究の成果物を逐一、目にしている。日頃、友人はおろか家族のパソコンの中身すら目にする機会もその気もない私としては、一瞬めまいを催すような経験だった。しかも、その成果物ファイルは見事なまでに整理されており、いかにもドイツ人、と国民気質のせいにしては片付けられない、徹底したプロ意識を感じさせるものだった。

しかし、本当に考えさせられたのは、じつは発表原稿のストックということ自体についてである。ある程度のキャリアを積んだ研究者ならば当然のことだろうが、過去の研究発表のデータをいつでも取り出して使い回しできるという態勢が、ある意味、新鮮な驚きだったのだ。というのも、我が身を思い返してみると、学会や研究会で試みたささやかな発表はどれも、いずれ本という小宇宙にまとめるためのパーツであるか、さもなければ主催者の注文に応じて俄か勉強した即興芸的なものであった。アートでいえば、つねに“work in progresss”(制作途上、進行中)であるか、その時その場かぎりの一回性の作品なのだ。だから、そのつど完結させたはずの論文や原稿は、時が経つともう使う気がしない。着古して脱ぎ捨てた服のようなもので、私のパソコンにはそんな古着の山が、雑然と仕舞い込まれている。

もちろんズュコラさんも、手元のストックの使い回しだけで日本での連続講演をするつもりは毛頭なく、2回めのジェンダー関係の講演や、3回めの京都での講演では、こちらの要望に応えて相当にカスタマイズしてくれた。だが、それにしても、あのときミュージシャンのベストアルバムのように並べられたファイルが眩しかったのは、折にふれ書いた発表原稿が、時を経ても意義を失わない完成度と、どこの国に持っていっても通用する国際的水準についての、自信というか矜持のようなものを私が感じ取ったからなのだ。そして自問してしまったのである。自分はそういう仕事のしかたをしてきただろうか。将来いつかそんな講演レパートリーをもつ研究者になれるだろうかと──。大学のなかに身を置いて、いつしか知らず知らずのうちに、制度によって求められる「業績」なるものを、中身はともかく一つでも多く書き連ねることに汲々としていたのかもしれない自分の足元を、呆然と見つめてしまう。

研究の成果を公表すること、いま夢中になっているテーマについて熱く語ることは、研究者の醍醐味であることに間違いないだろう。ただ、それを重ねていくなかで、自分の方法論や思考法のコアな部分を、国際的レベルで示せる「持ち歌」をどれだけ持てるかを、意識しておくことも必要かもしれない。

香川檀

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年2月26日 発行