単著
遠まわりして聴く
書肆山田
2017年7月
遠まわりして聴く、この表題は改めて指摘するまでもなく、その聴取という行為の対象を示すべき目的語を欠いている。もちろん、著者の和田忠彦氏の読者は、前著、『声、意味ではなく―わたしの翻訳論』という題名からの連想によって、また本書の様々な箇所にあるように、この聴取の対象が声であると想像しえるだろう。だが、注目すべき点は、この著書の備える要約不可能性という美徳は、同時にこの聴取の対象の指示不可能性と無縁ではない。とりわけ、今回の著作が耳を傾ける、あるいは聴覚的に感受するものがいわゆる言葉の拡がりを横溢していくがゆえに、それは声ならざる声としか形容しえないものだ。
ところで、余談として、岡﨑乾二郎の長年にわたる魅力的な仮説をここで付け加えておくことにしよう。『Ambarvalia』の冒頭に置かれた「天気」と題された詩が、ジョットによるスクロヴェーニ礼拝堂の壁画を詩化したものだというこの仮説とともに、この壁画と「何人か戸口にて誰かとささやく」という詩句を想起するとき、聴くという出来事の新たな相貌を見出すことができるだろう。
(松浦寿夫)