単著

土居伸彰

21世紀のアニメーションがわかる本

フィルムアート社
2017年9月

前著『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』(フィルムアート社、2016年)で、『話の話』の「謎」をめぐりアニメーションなるものを多角的に照らし出した著者は、その「応用編」と位置づけられる本書で、「二一世紀にアニメーション表現全体が経験しつつあるひとつの大きな変化」を明らかにし、アニメーションについて考える新たな視点を提出している。

本書の冒頭で著者は、『この世界の片隅に』(片渕須直)、『君の名は。』(新海誠)、『映画 聲の形』(山田尚子)という2016年の三作品の関係性に、世界中のアニメーションに起きる動向の縮図を見て取る。それを裏付けるために、第一部では「環境の変化」という観点から、21世紀のアニメーションをめぐって織りなされる広大な生態系が手際よく整理されていく。制作と受容いずれの側面にも大きな変化を生じさせたデジタル技術は、20世紀から連なる「伝統」を強固にする一方で、そうした「伝統」から離れた「部外者」の参入をもたらし、「部外者」は既存の「自主制作」文脈とも「アニメーション作家」文脈とも異なる、新たな文脈をつくりはじめ、アニメーション表現のあり方を更新していく。2000年代に並立していた両者の作品には、20世紀のモード、すなわち固有の「私」を描くという共通点があった。しかし2010年代のアニメーションに現れるのは、強固な「私」でもなければ普遍化された「私」でもない、それらの中間にありいっそう曖昧で流動的な「私たち」である。「私」から「私たち」へ、この移行こそが本書で主張されるアニメーションの大きな変化にほかならない。冒頭で挙げられた三作品には、それらのモードといかに向きあうかという点で違いが表れているのである。第二部では「表現の変化」に着目し、「私たち」つまりは21世紀のモードへの転換が跡付けられていく。その過程で提起される、デジタル表現における運動性(「ゾンビ化」)や「外部の消失」、「ファジーなアニメーション/私たち」や「イメージの空洞化」といった数々の概念は、それだけで十分に魅力的である。ただし、それぞれの概念をめぐる議論がやや抽象的になることは否めない。だが先述したように、本書は前著『個人的なハーモニー』の「応用編」であり、理論的な背景は前著に求められる。そこでは、アニメーションにかんする理論の考察を基に、それらの概念につながるいっそう踏み込んだ議論が展開されているため、本書と合わせて読むことをお薦めする。

本書を有意義なものにしているのは、アニメーションの現状を整理するにあたり導入される新たな区分にある。前著でも示されていたように、「商業/非商業(芸術)」といった既存の区分では、アニメーションを十分に捉えることはできない。本書における「大/中/小規模作品」、「伝統/部外者」といった区分は、従来の区分では見え難い作品間のつながりを浮かびあがらせ、それゆえアニメーション全般に生じた変容を捉えるのに有効に機能しているといえる。また、議論を支える豊富な具体例の提示は、上映企画や配給にも携わり世界のアニメーション事情に精通する著者らしく、実状がふまえられたものとなっており、本書は21世紀のアニメーションのガイドブックとしても有益だろう。

「あとがき」によれば、本書には当初『何も知らない者たちの時代のために』というタイトル案があったらしい。もちろん、その響きとは裏腹に、「何も知らない」という言葉は肯定的に捉えられるべきである。匿名化された集合的な登場人物や空洞化したイメージに遭遇するとき、「私たち」は自分とは少し異なる「あなた」を取り込み、そして自分を知ることができる。「何も知らない」という語には、21世紀のアニメーションがもつそんな可能性が賭されている。アニメーションに生じた変容の考察を通じ、それを見る私たちの変容をも浮かびあがらせる本書は、今後アニメーションを語るうえで必読の一冊となるだろう。

(大崎智史)

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年2月26日 発行