公開講座 「映画音響批評 小津安二郎の音を語る」
日時:2017年7月15日(土)
会場:早稲田大学戸山キャンパス34号館453教室
主催:早稲田大学文化構想学部文芸・ジャーナリズム論系
企画:長門洋平・松浦莞二・宮本明子
提供:マツダ映画社
助成:文部科学省科学研究費補助金若手研究B(課題番号15K16670)/公益財団法人稲盛財団2017年度研究助成「国内映画台本のアーカイブ化に向けた基礎的研究」
メディア掲載:朝日新聞夕刊5面【講座・講演】欄
登壇者(登壇順):
【第一部「はじめに」】 小沼 純一(早稲田大学)
【第二部 対談】 長門 洋平(京都精華大学)
【第二部 対談】 松浦 莞二(映像作家)
【司会進行】 宮本 明子(東京工業大学)
溝口健二や黒澤明に対して、小津安二郎の映画の「音」はどのように論じられるのか。研究、制作それぞれの立場から、小津映画の「音」を語る公開講座を開催した。
登壇順に、小沼純一(早稲田大学:主催)、宮本明子(東京工業大学:主催)、長門洋平(京都精華大学他、著書に『映画音響論:溝口健二映画を聴く』他)、映画監督・松浦莞二(2018年米アカデミー賞短編部門ノミネート対象となった『一月の手紙』(2017年)他)氏。対談では映画研究者の正清健介氏(一橋大学、日本学術振興会)にも議論に参加いただいた。
はじめに小沼純一氏から、国内の映画音楽、小津映画の音楽をめぐる議論について紹介がなされた。小津映画の「音」といえば、<淡々とした日常>に寄り添うような音楽、映像を邪魔しない音楽にすぎないと考えられてきたために、議論される機会が少なかった――「そうした点を溝口健二研究の長門さんからどう論じてもらえるか」(小沼純一)。また松浦氏には、「小津組関係者に取材を行う他、映画やMV制作も行う立場から、具体的なお話を伺いたい」(宮本明子)という思いがあった。以上の主旨に基づき、今回は論点を絞るため、第一部に作品上映、第二部ではそれをもとに対談を行う二部構成とした。具体的な内容は後日、松浦氏編纂・刊行予定の書籍にまとめられる予定である。ここでは会場で反響の大きかった項目を挙げ、当日を振り返ってみたい。
第一部では『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年、松竹株式会社)松田春翠活弁音声版*1を上映した。元来のサイレント版に後年、音声と音楽とが付されたものである(ゆえにこれらは「小津安二郎の音」にはあたらない)。これらとの比較を通じて、小津映画の音の特徴を浮き上がらせようという試みである。
*1 音声は1984年に吹きこまれた。伴奏音楽は、フジテレビの番組『こんな映画もありました』(1962年)のために録音されたものであったという。以上が株式会社マツダ映画社から教示を得たこととして長門氏から報告があった。
上記活弁音声版は、会場から「新鮮」「見慣れた映画も印象を一新した」と好評を得た一方、全編通じていかにも「説明しすぎている」(長門・松浦氏)印象を与えるものでもあった。たとえば、眠る子どもたち二人に父親(斎藤達雄)がかける言葉に、松田春翠は滔々とした語り、情感を込めた声色で父親の声を出現させる。そこに、一言で言えば〈哀切な〉音楽が流れている。
こうした「説明」に対し小津映画の音楽とは、<音楽で説明をしない>ものとして知られている。小津が作曲家・斎藤高順に語ったという、何が起ころうとも「お天気のいい音楽」という表現がそれだ。
以下、この「お天気のいい音楽」について、長門氏と具体的な作品を参照しながら確認した。『早春』(1956年)の葬儀、『東京暮色』(1957年)の母娘不和の場面でも、人物の状況とはおかまいなしに流れている音楽――。しかしだからといって、いつも「お天気のいい音楽」というわけではない。顕著な事例として、当の斎藤高順が音楽を担当した『彼岸花』(1958年)では、終盤、娘の結婚に反対していた父親がついに折れ、音楽は高揚をみせる。こうした事例をどうとらえるべきか。
以上を一例として様々な具体例、論点が提示された。「他の作品ではどうか」「(松浦氏の)実際の制作の話ももっと伺いたかった」など、いただいた声を次回開催への課題としたい。(宮本明子)