ジョルジュ・バタイユ生誕120年記念国際シンポジウム 神話・共同体・虚構 ──ジョルジュ・バタイユからジャン=リュック・ナンシーへ
日時:2017年4月22‐23日
会場:慶應義塾大学三田キャンパス南校舎ホール
第1部
報告者は、本シンポジウムに発表者として参加させていただく好運を得たのだが、当日に臨み、市川崇氏による開会の辞を拝聴して、本シンポジウムが一年以上の月日をかけて、市川氏、酒井健氏、福島勲氏、柿並良佑氏、渡名喜庸哲氏といった方々によって緻密に準備されてきたものであることを知った。ここでいう準備とは、実務的な事柄だけでなく、主題の精錬ということであり、先立つ複数のワークショップ等における議論が、「神話・共同体・虚構」という本シンポジウムのテーマ設定の土台となっている。そして言うまでもなく、これらのテーマは、生誕120年を記念されているジョルジュ・バタイユとならんで、本シンポジウムがジャン=リュック・ナンシー氏に捧げられる理由をなすものである。前年の3月、本シンポジウムへの参加の打診を受けたナンシー氏は、ふたつ返事で快諾なさったという。いわゆる若手研究者5名が発表を行う4月22日(土)の部では、ナンシー氏は各発表についてコメントをくださり、全発表終了後の討議にも加わってくださる予定となっていた。
非常に残念なことに、この予定はついに実現しなかった。ナンシー氏は日本到着後、しばらく精力的に活動なされていたものの、体調を持続的に崩され、当日会場に来訪することが適わなくなってしまったのである。その後、日数をかけながらも落ち着かれ、無事にご帰国なされたのは何よりのことだった。当日、発表者たちは、気がかりを抱えつつ、氏の不在のなかで、氏にお聞きいただくことを念頭に準備した発表を行い、それを、氏の不在とともに、会場の方々にご聴取いただくこととなった。「不在の現存/現前」、ないしはそれに類した言葉が、休憩時間などに、会場の各処で聞かれたのを記憶している。状況を表す言葉は容易に選べないが、氏の不在の重みが確かに共有された場であったことは明記しておきたい。
発表は、フランス語が3本、日本語が2本となった。大池惣太郎氏は、バタイユにおける「エクスターズ〔脱自〕」と「共同体」の関係の本質性をめぐる、『無為の共同体』でのナンシー氏の指摘を出発点としながら、それを、「内的経験」と「コミュニカシオン〔交流〕」の関係の本質性として発展的に読み解き、これらふたつの事態が「分有の経験」として結節することを、その具体的様相とともに浮かび上がらせた。井岡詩子氏は、自らに固有の形象を作り出すこと、という、ナンシー氏による「虚構」の定義に触れながら、バタイユにおいて「虚構」を享受する主体はだれなのか、という問いを立て、「アンフォルム〔不定形〕」という語の用法の変遷を第二次世界大戦後の著作にまで追い、「子ども」による至高な享受、という論点を析出した。石川は、第二次世界大戦後の社会を「神話の不在」と形容し、それを「唯一〈真なる〉神話」と読み替えるバタイユの視座への言及から発して、ナンシー氏の『無為の共同体』とブランショの『明かしえぬ共同体』に導かれつつ、「行動」によって無益さを断罪される「文学」──その時々における生の享受をしか顧みない、この「再び見出された少年時代」──の自己抹消の決意に、おのれの不在の強度を示し出すことを通じた「行動」への対抗可能性を読み取る、バタイユ晩年の思索を論じた。中川真知子氏は、バタイユの小説作品『死者』を題材として、ナンシー氏が『アドラシオン』で提起する「死者」と「死」の区別に則り、この小説が「死」の抽象性から引き剥がされた「死者」の表現に向けられていることを、ヴァリアントや草稿の丹念な比較分析を通じて明るみに出した。松本鉄平氏は、キリスト教の脱構築をめぐるナンシー氏の思索にバタイユが及ぼした影響を看取しつつ、ジルソンやマリタン、ムーニエといったキリスト教思想家たちが1940年代に提起した、個体と密接に関わるものとしての神的普遍性の観念が、ナンシー氏によって、ゴーシェの言う「宗教からの脱却という宗教」の新たな可能性にいかに開かれていくかを明示した。これらの発表を承けて最後に行われた討議の委細には、ここで立ち入る余裕がないが、発表者間のみならず、会場を交えての豊かで親密な応酬となったことが喜ばしい。各発表をマネージし、刮目すべき問いを向けてくださった、司会の福島勲氏への御礼も申し上げたい。
シンポジウム終了後しばらくして、ナンシー氏から、すべての発表に対してコメントを提供したい、というご厚意をいただき、発表者一同は、フランス語原稿を氏にお送りした。6月上旬には仔細なコメントが届けられ、そのなかで提起された問いをめぐり、それをさらに発展させる仕方で、メールでのやり取りも重ねさせていただいた。氏不在のなかで、氏の考察に拠りつつ、いわばナンシーからバタイユへ、というアプローチの充実に多く努めた各発表は、こうして氏の応答を受け、バタイユからナンシーへ、というシンポジウムの主眼をいっそう叶える成果を得られた。末筆ながら、氏の真率な歓待に、衷心よりの感謝を記す。
(石川学)
第1部プログラム
日時:2017年4月22日(土)10:00〜17:30
開会の辞 Ouverture
市川崇(慶應義塾大学)
大池惣太郎(東京大学)「『内的経験』における他者の場所」
Sotaro OHIKE (Université de Tokyo), « Tout lieu de (croire à) l’expérience de l’autre »
井岡詩子(日本学術振興会)「だれが『虚構』を悦ぶのか?──もうひとつの『アンフォルム』のために」
Utako IOKA (JSPS) « Qui est-ce qui prend plaisir à la “fiction” ? : Pour une autre notion d’“informe” »
石川学(東京大学)「神話の不在、文学の不在──ジョルジュ・バタイユと消滅の力をめぐって」
Manabu ISHIKAWA (Université de Tokyo), « Absence de mythe, absence de littérature : Georges Bataille et la puissance de la disparition »
中川真知子(慶應義塾大学)「ジョルジュ・バタイユの『死者』について──キリスト教・愛・物語」
Machiko NAKAGAWA (Université Keio), « Du Mort de Georges Bataille : Le christianisme, l’amour et le récit »
松本鉄平(慶應義塾大学)「『個人』をめぐる1940年代のキリスト教思想──J.-L. ナンシーの脱キリスト教的視点から」
Teppei MATSUMOTO (Université Keio), « Les pensées chrétiennes sur la question de l’individu dans les années quarante : Du point de vue déchristianisé de J.-L. Nancy »
討議 Discussion
第2部
シンポジウム2日目のオープニング・アクトは柿並が務めた。バタイユとナンシーの思考が混然一体となる点を「もっと遠くへ行くこと(aller plus loin)」というバタイユ由来の一節に求め、人間(homme)という形象なき時代における思考そのものの身振りや運動を取り出そうと試みる報告は、それ自体が語りの力──ナンシーの解する意味での神話──を顕示しようとするパフォーマンスでもあろうとしていたのだった。それは宛先、宛名のない「オマージュ(hommage)」、
続く福島氏によるスライドを駆使した報告は、ナンシーの『無為の共同体』の末尾で十分に吟味されたとは言い難いモティーフである「恋人たちの共同体」を、バタイユの作品における恋人たちが織り成す関係に分け入り、分割=共有(partage)というナンシーの鍵概念に照らしつつ腑分けするものであった。分割=共有のネットワークとその引き裂きを幾様にも分析することで、「恋人たちの世界」が決して合一の共同体に閉じるものでないことが示されていた。
渡名喜氏はシンポジウムにレヴィナスという第三者を呼び込み、さらにはナンシーのみならずブランショも媒介者に据えてバタイユとの近さと遠さ──まずは「内的体験」と「ある(il y a)」──を中心にした思想史的光景を提示してみせた。とりわけエロスをめぐるレヴィナスの文学的実践がとりあげられ、バタイユの批判を受けたレヴィナスの仮想的応答が垣間見られた後、通常の時間が断絶される「瞬間」のモティーフ、あるいは「未来」の位相がエロスの重要な論点として提示された。発表後の質疑応答では福島氏からのコメントもあり、エロス・生殖・愛といった概念の腑分けがラウンドテーブルを予告する形で争点となったことを付言しておこう。
市川氏の報告は、犠牲や暴力を伴う共同体の危険を踏まえた上で、バタイユが志向した「ニーチェ的な未来の神話」を取り上げた。近年のナンシーの著作『否認された共同体』(La communauté désavouée, Galilée, 2014)までを視野に収め、バタイユの人身供犠計画の放棄をめぐるブランショとナンシー双方の読解の応酬に分け入りながら、バタイユの供犠の経験に(ここでもまた渡名喜氏の発表の眼目でもあった)時間性という論点が浮上することを指摘していった。なお、市川氏の視点による本シンポジウムの報告が雑誌『ふらんす』(白水社、2017年8月号)に掲載されているので、是非あわせてお読みいただきたい。
酒井氏は〈神の死〉以降の神話の問題系を探るため、ニーチェを含む19世紀の思想空間に遡行した後、ニーチェのレトリック/メタファー論をてがかりとして、バタイユとナンシーがどのようにその問題系を引き受けたのかを問う。今日において神話が単に可能か不可能かを問うのではなく、その2項の包含・絡み合いの検討を要請するものであった。
ゲストとして招聘されたナンシー氏は体調不良のため、当日出席することが叶わなかった。この日のために用意され、来日してからも手を加えられていた原稿はパートナーのエレーヌ氏によって読み上げられ、日本語訳はリアルタイムでスクリーンに映し出された。
Bataille par cœurと題されたテクストは、par cœurというイディオムを踏まえれば「諳んじているバタイユ」という意味になり、初期からナンシーが折に触れて諳んじてきたフレーズがあらためて俎上に載せられる。まさにいくつかの言葉が織りなしている「神話」としてのバタイユが主題として取り上げられていたとも言えようし、陳腐な言い方をすれば二人の思想家が一「心」同体となる地点の探求だとも解されようが、しかし「真理に/実際のところ、我々は到達する(À la vérité, nous atteignons)」というフレーズの検討は、到達不可能なものとしてバタイユが示す〈心/核心 cœur〉に触れるという、「不可能なもの」の経験を要請する。その経験とは、対象についての言葉としてのロゴスではなく、自らについて語る言葉、しかし誰のものでもない言葉、対象をもたず、バタイユがそこへと身を投じてやまない夜の経験、つまるところ「書く」という経験であった。そうした経験が──おそらくはエクリチュールとパロールの対立をかわして──そこに居合わせる人々の共同体を仮構していく。しかし「神話の不在」という神話が旧来の意味での神話を再構成するものではなく、諸種の共同体の限定解除として読みうることが提示されたことはバタイユ読解/共同体論としても興味深いところだろう。限定の除去──「不可能なもの」はその次元で考えられており、可能なものの次元、ないしそれとの対立において考えることはできない。不可能なものとしての言葉は、講演の後半で、明らかに通常のディスクールとは異なる調子を帯びた、切れ切れの静かな叫びのような言葉となっていった。
ラウンドテーブルでは、時間をめぐる議論(「未来に向けた自己贈与」、作品概念、オマージュなどを個別の論点として)や、エロスと生殖と愛(そしてそれらの差異)をめぐる議論が再度取り上げられたほか、「宛先なき差し向け(adresse sans adresse)」をどのように考えるべきなのか、神話を欠いた社会の条件とは何か、等々、壇上での議論が一通りなされた。続くフロアとの質疑応答も、シェリング的トーテゴリーとナンシーの言う言葉(おのれを語る言葉)の差異、par cœurという語と固有化/非固有化、なぜ「今」バタイユを読むのか、そしてまた読むという「実践」の問題、等々をめぐって活発になされた。報告者として強調しておくなら、「関係なき関係」──「共同性なき共同体」というバタイユ的主題を引き継ぐナンシーのライトモティーフ──の再神話化・神秘主義化について警戒の必要性も議論されたが、しかしこの表現はそれを明示的に論じる市川氏の発表のみならず、福島氏の主題となった恋人たちの関係や、渡名喜氏の発表における「非連続性と連続性」の関係としてのエロスなどに形を変えつつ現れた、共通の思考の事柄であったのだろう。当日と同様、最後に付け加えておくなら、「神話」というテーマはナンシー本人がバタイユについての共通テーマとして提案してくれたものであり、本シンポジウムはその意味で複数の人々の意図を汲みながら開催にこぎつけたものであった(振り返ってみれば、その間にいわば一つのステップとして本学会で組織されたパネルも挙げられる)。とはいえ、それは企画・運営にたずさわる者の神話的セクトを構成することであってはならず、仮にそうした徒党が出来上がった場合にそこに入ることができない人たちの「居心地の悪さ」がフロアから指摘されたのに対して、登壇者もそれぞれが持つ「居心地の悪さ」(あるいは部外者性)をもって応じたことは、壇上にいた私の記憶に鮮烈に刻まれている。
末筆ながら、ナンシー氏本人は来日しながら当日そこに居合わせられなかったことをとても悔やんでいる。柿並も企画者の一人として当日述べたことではあるが、心臓移植を受けた高齢の人物に降りかかった諸種の困難という偶発事はあったものの、万全のコンディションで当日に臨んでもらうことができなかったこと、そしてまた当日会場に足を運んでくださった多くの──2日目のナンシー氏による講演が近づくにつれ、席をどんどん埋めていった──方々のことを思うと慚愧に堪えない。もちろん、より完全な形で遠からず活字化されるだろう本シンポジウムの記録にはナンシー氏のテクストに加えて、登壇者の各発表へのコメントも添えられる予定である。いわばその「予告編」として今年9月にストラスブールのナンシー宅にて撮影された「日本のオーディエンスへのメッセージ」をここにお届けする(URL)。
(柿並良佑)
第2日目 プログラム
4月23日(日) 10:00〜18:00
柿並良佑(山形大学人文社会科学部)「人間(オム)なきオマージュ──バタイユとナンシー、思考の身振りと力」
Ryosuke KAKINAMI (Université de Yamagata) « Hommage, sans homme : Bataille et Nancy, le geste et la force de la pensée »
福島勲(北九州市立大学文学部)「「恋人たちの共同体」再考——バタイユの物語作品とナンシーの思考から」
Isao FUKUSHIMA (Université municipale de Kitakyushu) « La communauté des amants : « Partage » partagé entre G. Bataille et J.-L. Nancy »
渡名喜庸哲(慶應義塾大学商学部)「エロス、文学、災厄──バタイユ、レヴィナス、ナンシー」
Yotetsu TONAKI (Université Keio) « Eros, littérature et désastre : Bataille, Levinas, Nancy »
市川崇(慶應義塾大学文学部)「時間、エクリチュール、政治──ジョルジュ・バタイユとジャン=リュック・ナンシー」
Takashi ICHIKAWA (Université Keio) « Temps, Écriture et Politique : Georges Bataille et Jean-Luc Nancy »
酒井健(法政大学文学部)「バタイユとナンシーにおけるニーチェの可能性と不可能性──神話の問題系を中心に」
Takeshi SAKAI (Université Hosei) « Possibilité et impossibilité de Nietzsche chez Bataille et Nancy : Autour de la problématique du mythe »
ジャン=リュック・ナンシー「心からバタイユを」
Conférence de Jean-Luc Nancy « Bataille par cœur »
ラウンドテーブル
Table ronde
主催:慶應義塾大学文学部仏文学専攻
共催:慶應義塾大学・藝文学会