第8回表象文化論学会賞授賞式
【学会賞】
木下千花『溝口健二論 映画の美学と政治学』(法政大学出版局)
まず、選考委員の先生方に御礼を申し上げます。
『溝口健二論──映画の美学と政治学──』(法政大学出版局、2016年)は、着想は東京大学駒場キャンパスに遡り、たいへんお恥ずかしながら、20年の歳月がかかってしまいました。そのため、ご指導賜り、お世話になった方々のお名前をすべてこの場で挙げることは難しく、拙著の謝辞をお読みいただければ幸いです。この本の企画にしても、思えば、松浦寿輝先生の最終講義で、法政大学出版局の前田晃一さんにお声がけいただいたのがすべての始まりでした。
竹峰義和さんとともにこの賞に選ばれたことは身に余る光栄です。そして、2013年の表象文化論学会大会で、私自身も親しくさせていただいた御園生涼子さんの『映画と国民国家 1930年代松竹メロドラマ映画』(東京大学出版会)で奨励賞を受賞され、このスピーチの場で、ジェンダーについて論じた日本映画研究が認められたことに言及なさったのを鮮やかに覚えています。やはりジェンダーと日本映画の関係を論じた私の脳裏には、いつも御園生さんのことがありました。読んでいただくことができなかったのがとても残念ですけれども、もしかして喜んでいただけたのではと思っています。
私自身は、「フィルム・スタディーズ」の本を書くということに関してはとても意識的だったのですが、「表象文化論」というディシプリンについては少し逃げていたところがあります。「表象文化論」って英語にならないし、と嘯いてみる一方で、駒場の落ちこぼれという意識も抜けませんでした。そのはずが、「表象文化論」という場がなければ、おそらくこの本を書くことはできなかったと思い知るに至りました。この刺激的な空間で、ミディウムということについてたくさんの貴重な耳学問をさせていただき、そのおかげで「溝口健二」を様々な言説に開くことが出来たのではないかと思っています。怠慢な私に思考を強いてくれた「表象文化論」という場に心から感謝いたします。
英語で博士論文を書き、提出してから10年近くが経ち、日本語で、3/4は一から書き直しました。あまり自慢できる経緯ではないのですが、後悔はしていません。英語と日本語の二つの全く違うアカデミアの基準に向き合うことがとてもよい経験になりました。外国語で博士論文を書かれた方々の励みになることができれば、なによりの幸せです。
竹峰義和『〈救済〉のメーディウム:ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会)
このたびは表象文化論学会賞をいただき、本当に嬉しく思います。まず、審査にあたられた選考委員の先生方に、けっして薄いとはいえない拙著にお目通しいただいたうえに、このような名誉な賞に選んでいただき、深く感謝いたします。また、東京大学出版会の木村素明さんは、担当編集者として、企画から執筆、刊行までの過程をずっと随伴して、親身になってサポートしてくださいました。私の関わった本は基本的にほとんど売れず、この『〈救済〉のメーディウム』も売り上げという点では出版社にご迷惑をおかけしていることと思いますが、この受賞によって、少しだけですが、拙著を刊行していただいた恩返しになればと思っています。本当にありがとうございました。
いま受賞者としてこのようにスピーチさせていただいているわけですが、少々不思議な気も致します。というのは、私はこの数年間、学会の事務局でスタッフとして働いてきたのですが、少し前までは私が学会賞業務の担当で、推薦書の取りまとめや表彰状の発注、副賞の万年筆の手配などをやっていたからです。もちろん、今回の選考過程に私がまったくタッチしていないことは強調しておかなくてはなりませんが、ともあれ、裏方だった自分が急に表舞台に引き出されたような戸惑いは禁じえません。
事務局スタッフは今年で5年目となり、ちょうど今回の大会でお役御免になるはずで、自分のなかでは、今回このような賞を頂いたことで、学会から「お疲れ様」と言ってもらったような気がしていました。ただ、さまざまな事情から来年3月まで引き続き仕事をすることになり、受賞した分もう少し学会に貢献せよ、というメッセージも込められているのかと、いま思いなおしているところです。
私がこの賞を頂いたことに、おそらく誰よりも喜んでくれたと同時に、たぶんとても悔しがっただろうと思われるのが、一昨年に逝去した妻の御園生涼子です。彼女は以前に表象文化論学会の奨励賞を受賞しているのですが、ここだけの話、何で奨励賞なんだ、学会賞の方がよかったのに、と、けっこうずっと文句を言いつづけておりました。
せっかく賞をくださったのだから素直に感謝すればいいのにと言っても、ひたすらむくれていた彼女の表情が懐かしく思い出されます。なお、拙著の刊行と前後するかたちで、彼女の遺稿集である『映画の声──戦後日本映画と私たち』(みすず書房)という書物を昨年刊行し、昨年秋のこの学会の研究発表集会の関連イヴェントというかたちで書評会を開催していただいたことは、ご記憶にある方も大勢おられると思います。これはまったく根拠のない自分だけの想像ですが、今回、質量ともに圧倒的な木下さんの『溝口健二論』に比べて、さまざまな点で見劣りする拙著が同時受賞という栄誉を受けることができたのは、妻の遺稿集と拙著とで、柔道で言うところの合わせ技一本というかたちでの受賞だったのではないかと、勝手に考えています。
その場合、妻は奨励賞と学会賞を初めてダブル受賞したということにもなるのではなるわけですが、彼女がそんな理屈で納得してくれたとはとうてい思えず、「わたしは胡麻化されない、自分だけ学会賞をもらってやっぱりズルい!」と怒りを募らせているのではないかと思います。悔しかったら、この懇親会の会場でも、あるいは私の枕元にでも化けて出てこい──そう天国に向かって呼びかけることで、私のスピーチを締めくくりたいと思います。本当にありがとうございました。
【奨励賞】
該当なし
【特別賞】
該当なし
選考過程
2017年1月上旬から1月末まで、表象文化論学会ホームページおよび会員メーリングリストにて会員からの学会賞の推薦を募り、以下の作品が推薦された(著者名50音順。括弧内の数字は複数の推薦があった場合、その総数)。
【学会賞】
- 池野絢子『アルテ・ポーヴェラ:戦後イタリアにおける芸術・生・政治』慶應義塾大学出版会 (2)
- 沖本幸子『乱舞の中世──白拍子・乱拍子・猿楽』吉川弘文館
- 木下千花『溝口健二論 映画の美学と政治学』法政大学出版局 (3)
- 竹峰義和『〈救済〉のメーディウム:ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』東京大学出版会 (3)
- 土居伸彰『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』フィルムアート社
- 劉文兵『日中映画交流史』東京大学出版会
【奨励賞】
- 池野絢子『アルテ・ポーヴェラ:戦後イタリアにおける芸術・生・政治』慶應義塾大学出版会 (3)
- 木下千花『溝口健二論 映画の美学と政治学』法政大学出版局
- 土居伸彰『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』フィルムアート社 (2)
【特別賞】
推薦なし
選考作業は、各選考委員がそれぞれの候補作について意見を述べたうえで、全員の討議によって各賞を決定していくという手順で進行した。その結果、最終的に木下氏と竹峰氏の著作が授賞作の候補に残ったが、審議の末、どちらも等しく学会賞に相応しいという結論となり、今年度は当2作を学会賞に選出することとなった。なお奨励賞に関しては、今年度は該当作なしと決定された。
【選考委員コメント】
細馬宏通
私はふだん、人の行動を実際に観察分析する研究をしており、表象文化論の著作に積極的に接しているとは言いがたい。表象文化論学会の学会賞選定にかかわるなど、おこがましいのもいいところなのだが、これを機会に勉強させていただくつもりで委員を引き受けさせていただいた。それぞれ異なる分野の、しかも大著揃いの候補作を読み進めるのは想像以上に時間のかかる作業で、しかもいずれの著作も読みどころが多く、付箋と書き込みだらけになった。
まず学会賞の候補としては木下千花『溝口健二論』を推した。とりわけ私が注目したのは本書のあちこちで用いられる、シークエンス内、ショット内の空間配置、音声に注目した精緻な分析である。実際の映像と音声にあたることを通して、俳優の動的な人物配置をセットの中で実現していく溝口の特異な演出(ミゼンセヌ)が、精緻な筆致で浮かびあがってくる。私自身、日頃ビデオ分析において空間の中で行われる所作をいかに記述するかに苦心していることもあり、その筆力には圧倒された。それぞれの分析は、多様な資料を駆使しながらもあくまで作品に最後の答えを求める著者の粘り強い思考に支えられており、学会賞として文句なく推薦できる内容だと思った。
次に私が推したのは沖本幸子『乱舞の中世』だった。啓蒙書の形は取っているが、文字資料から当時の歌や舞を想像させるという至難の業をこの著者はこのコンパクトな著書で実に楽しそうにやってのけている。もしかしたらそうした想像を楽しめたのは、私自身に田楽舞の調査に関わった経験があったせいかもしれないが、それにしても、白拍子の「うたふ」と「かぞふ」の差異や、セメの即興性への着目、当時の乱拍子の描写からその性質を抽出する手管は鮮やかなものだ。後半の「翁」論では、舞研究のエンサイクロペディアとも言える新井恒易の記述を手がかりに新しい翁観を描いており、こんな風に舞を比較研究する方法があるのかと驚かされた。
竹峰義和『〈救済〉のメディウム』が扱っているのは、私にとっては専門外の領域だが、第一部で扱われるチャップリンの痙攣的動きとカフカの「異郷」との関係、初期のミッキーマウスに自然と技術の宥和性を見出したベンヤミンの感覚など学ぶところは多かったし、第三部で膨大なテレビ番組資料を参考にしながら展開されるクルーゲ論には圧倒された。一方、第二部で扱われているアドルノの音楽論では、もう少し実際の音楽/映像の持つ構造とアドルノの(映画)音楽論との関係を知りたく思ったが、この分厚い記述にさらにそれを求めるのは贅沢が過ぎるかもしれない。
池野絢子『アルテ・ポーヴェラ』は、私がイタリア現代美術にまるで不案内なこともあり、気になる作家が出てくるたびにネットで画像や動画検索するという、極めて現代的な読書方法で読み進めた。その結果、本書で繰り返し取り上げられるミケランジェロ・ピストレットの活動の魅力を知ることができたのは収穫だった。その一方で、「アルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)」と呼ばれた作家たちの多様な活動の可能性に比べて、チェラントをはじめ彼らを評する批評家たちの言説の限界が気になった。本書は作品そのものの可能性よりも、批評言説どうしの関係を中心を追っており、そこからパゾリーニも巻き込んで浮かびあがるイタリアの美術・演劇界の動向をおもしろく読んだが、一方で、実際の作品には『貧しさ』以外にもっといろいろおもしろいところがあるんじゃないかしら、という思いも浮かんでしまった。
土居伸彰『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』は、ノルシュテインの「話の話」の謎をきっかけに、幾多の現代アニメーションに通底する感覚を探る著作である。多くの商業アニメーションに対して、個人で作られるアニメーションは大ざっぱに「実験アニメーション」と呼ばれたり「インデペンデント」と呼ばれたりするものの、それらがどのような共通の性質を持っているのか、個人でアニメーションを作るということが作品に何をもたらすのかについて、語ることばを持っている人はあまりいない。著者は世界各国のアニメーションを精力的に見続けてきた経験をもとに、この未だ言語化されていない領域を探査し、いま生きる現実が実は多数ある世界の一つでしかなく、にもかかわらず/だからこそ、それを個人の生として捉え直すという態度を、現代のアニメーション作品に見いだしていく。必ずしも見通しのよい見取り図を与えてくれる著作ではない。しかし俯瞰的な視点をさけるその態度は、今まさに生まれつつあるアニメーションに触れ続けている著者の誠実さの表れと見るべきだろう。
劉文兵『日中映画交流史』は、戦時中の満州映画がもたらしたもののみならず、冷戦時代、改革開放後の中国において日中の映画人にどのような交流があったか、日本映画やTVドラマがどのように受容されてきたか、そしてこれらの交流にどのような歴史的経緯があるのかを通暁する充実した歴史記述であり、健さんや山口百恵作品をはじめ、私自身が70年代以降に親しんできたさまざまな作品を、中国からの全く新たな視点によって見直す思いだった。「表象文化論」という名の下に本書を評価してよいかは置くとして、個人的には候補作中最も楽しんだ本であった。
討議の結果、木下千花、竹峰義和両氏の受賞となったが、今回はそれぞれの研究者の長年の研究をまとめた大著が多く、正直なところ、一つの賞の名の下に比べるのはもったいない気がした。著者の方々のさらなる研究のご発展を祈念する。
長木誠司
候補となった作品のうち、木下千花氏の『溝口健二論 映画の美学と政治学』、および竹峰義和氏の『〈救済〉のメーディウム』は、その規模と内容において群を抜いており、またともに贈賞対象として捨てがたい魅力を持ったものであった。
木下氏の書は、溝口健二という対象をポリティクスと感性学的な意味を含むエステティクスのマトリクスとして細大漏らさず描ききったもので、包括的な視野の下に論じられるあらゆる論点が、資料的細部までおそろかにせず、巧緻な分析力を持って、同時に巧みな筆致を持って展開されており、なみなみならぬ迫力を感じる。その基礎には、1ショット、1シーン、ひとつも見落とさぬというような、溝口映画へのきわめて貪欲な愛情が感じられ、しかしそれがひとときも溺愛になっておらずに、冷徹なまでの解析への欲望の下で、どのページを見ても隙なく密度の濃い文章へと変換されているところがすばらしく、読み手を引き込む文体の力量ともに、大いに評価されるべき点である。
竹峰氏の書は、著者が長年取り組んできたベンヤミンやアドルノの研究の延長線上にあるが、ことに近年得てして、その立論が時代に制限された硬直的なものとして評価されがちなアドルノについて多くの紙面を割きながら、そのアクチュアリティをもういちど問い直そうとする野心作である。ベンヤミン、アドルノ双方についての基本的な視座は〈救済〉であるが、このテーマをテクスト内在的に読み解いていく手法はスリリングであり、著者のいつもながらの着実なテクスト読解が、ときに到来する新鮮な着眼点、思索の着想豊かな仰角の変化によって、新たな局面へと開かれていく様子が魅力的である。第三章に置かれたクルーゲ論は、著者にとっても新しい対象を扱った部分であり、今後いっそうの深化もあり得るだろう。その可能性も含めて、きわめて内容の充実した、示唆に富む書と評価したい。
沼野充義
本年度は年甲斐もなく世界を飛び回っていて、選考会の日はサハリンから意見書をメールで送って書面参加となった。そして、この選評を書いているのは、ドーハ経由でトビリシに向かう飛行機の中である。走り書きになってしまうが、以下、簡単に感想を記しておく。
本年度候補になった著作はいずれも水準が高く、特に表象文化論系の博士論文をもとにした本、あるいはさらにそこから発展した著作が中心になっており、「表象文化論」というディシプリンから育った中堅・若手研究者たちの収穫期を思わせる。いずれの著作も受賞しておかしくない優れたもので、複数の候補者に「気前よく」賞を出すべきだ、ということを強く思った。賞の選考に携わっていて、こう思えることはめったにないので、これは私にとってもたいへん嬉しい経験だった。
今回文句なしに受賞に値すると思ったのは、まず、木下千花『溝口健二論』。通時的に溝口の発展を追いながら、作品に即してショットの緻密な分析を行うと同時に、歴史的・政治的背景にも踏み込み、国際的なコンテクストも視野に入れ、英語文献も渉猟し、メディア論、ジェンダー論的なアプロ―チも有機的に組み入れている。映画の専門家から見ると、細部であれこれ注文があるかもしれないが、一冊の総合的溝口論としては最高の達成ではないかと思う。すでに芸術選奨新人賞という大きな賞を受賞しているが、これは表象文化論学会としても別途、評価するべき著作である。
次にしかるべき顕彰を受けるべきと思ったのは、竹峰義和『《救済》のメーディウム』。この著者はすでに優れたアドルノ論で知られる第一線の研究者であり、この本も、著者のこれまでの研究の蓄積とすでに発表された成果に基づいたものである。ベンヤミン、アドルノから始めてクルーゲにつないで、フランフルト学派の持っていた美学・メディア論的可能性のアクチュアリティを描きだそうという構想は、野心的である。とはいえ、それだけに逆に、この構成で一冊の著作としてのまとまりをつけるには、やはりやや無理があったのではないかという印象も持った。しかし、これまで著者が考え、発表してきたこれら3人についての論考の現時点での集成として大きな意味があるとするべきであろう。アドルノを論じた著書以降も、精力的にたゆまず研究を深化させ、視野を広げている著者に敬意を表する。
次に、上記二冊に比べるとやや小ぶりな本であるとはいえ、沖本幸子『乱舞の中世』も非常に注目すべき研究だと思った。白拍子・乱拍子について、文献に基づいてここまで生き生きと描き出した研究は初めてではないだろうか。比較的平易に読める、やや小ぶり小著ながらも、この研究・洞察の成果は大きなもので、日本の伝統芸能における舞踊の意味の根本的再考を促す独創的なものでもある(特に能の「翁」との関係において)。ただし沖本氏がすでに十分に評価を受けている研究者であり、今回の本もすでにサントリ―学芸賞の栄誉を受けていることがなければ、この本も強く推したいところだった。
研究歴の点で上記3名に比べるとやや初々しいため、奨励賞に相応しいのではないかと考えたのが、まず池野絢子『アルテ・ポーヴェラ』。戦後イタリアの重要な芸術運動を、歴史的なパースペクティヴから総合的に描き出す試みとしては、日本では初めての画期的なものである。この芸術運動の重要性を、今日の視点からくっきりと浮き彫りにすることに成功している。イタリア留学経験の成果も生かし、イタリアの地政学的文脈もきちんと押さえたうえでアルテ・ポーヴェラの全貌を描きだした力量には、敬服せざるを得ない。しいて欲を言えば、このテーマに集中して研究してきた若手のひたむきさには大いに好感を持ったものの、もう少し大きな視野からの──つまり、戦後世界のその他の芸術の動き、また世界的な社会変動と美意識の変動なども考慮に入れたうえでの──位置づけがもう少しあると、さらに説得力を増したのではないかと思う。
土居伸彰『個人的なハーモニー』は、ソ連・ロシアの代表的な、特異なビジョンを持ったアニメ作家、ノルシュテインの代表作として有名な「話の話」の謎を取り上げ、その特質を緻密に分析しながら、同時にこの作品が潜在的に持っているアニメーション映画の「別の可能性」を探りつつ、結局のところ「アニメーション史の再構築」を目指すという野心的な課題を遂行しようとした著作である。日本でもよく知られた映像作家ノルシュテインの作品について、このように精緻に分析した論文は日本では前例がない。またアニメーション映画の「別の可能性」(商業的なものではない、芸術的な試み)の系譜について辿った「歴史」的な側面も興味深く読ませる。日本では数少ない、本格的アニメ研究者の著作として重要である。ただし、ロシア語ができる著者による研究であるにもかかわらず、ロシアでの新たな資料調査や取材による掘り下げがあまりないのが惜しかった。そしてノルシュテインの「謎」解明の結論がやや一般論に流れて説得力に欠ける面があったのが残念である。とはいえ、ロシア畑の人間としては、この著者には今後いっそう頑張ってほしいと、声援を送る。
最後に上記四作とは明らかに趣が違い、どう評価するべきか、迷ったのが、劉文兵『日中映画交流史』。この分野ですでに多くの著作を一般向けに出版している著者の、日中映画交流史研究に関する集大成というべき著作で、堂々たる通史になっており、これはこの著者でなければ書けないものである。その意味で大変貴重な、今後末永く参照されるべき基本的通史になっていることは明らかだろう。また細かいエピソードなどで、いろいろ興味深い指摘もある。とはいえ、これは全体としてみると、映画そのものに対する表象文化論的アプローチによる研究というよりは、やはり交流史の歴史的通観であり、その意味では表象文化学会賞が顕彰すべき性格の著作のカテゴリーからはちょっとずれるように感じた(木下氏の著作と比べると、その性格の違いは歴然としている)。しかし、その反面、中国からやってきた研究者が研鑽の末、ここまで立派な本を日本語で書き、この分野の基本的知識を日本の研究者に提供してくれているという意味では、特別な功労を顕彰されるべき著作ではないでだろうか。審査員特別賞といったカテゴリーが今回だけ特別設けられるものなら、それに値する著作ではないかと考えた。
根本美作子
今年は大変喜ばしい豊作で、審査員としては喜びの悲鳴を上げたくなるような作業であったが、大変刺激的な経験となった。
木下氏の『溝口健二論』は圧倒的な迫力で、600頁(後書きをいれて丁度600頁!)の大作でありながらぐいぐい読ませる情熱と筆力が最後まで緩むことがないという信じられない力業。もちろん木下氏の素晴らしい知性、映画への愛情と深い造詣、広範囲に亘ってさまざまな文献を読み込む忍耐力と学識、などといった多くの類まれな美点がある。しかし、600頁のテンションを維持している一番大きな力は義憤なのではないかと思った。日本のマッチョなナショナリズムに対する義憤、現在も私たちを取り巻いている目を覆うばかりのこの国の家父長制のなかで研究者となり、このような力強い思考能力・分析力を育んできた木下氏の日々の義憤にこそわたしは敬意を表したい。たとえば26頁の「日本のナショナリズムの根底にはジェンダーがある」という簡潔な診断を読んだとき、わたしははやくも快哉を叫んだ。溝口の作品を追いながら、日本においてナショナリズムを不可能にした歴史、戦前から戦後にかけての歴史に、新たなメスを入れ、そこにジェンダー問題を浮かび上がらせた本書は、歴史書としても読み応えのある研究であると同時に、その歴史の延長線上にある今日のわれわれにとって、現状を考える上でも大いに役に立つ書物である。そのように直截的に語りかけてくる研究書というものは非常に希少価値の高い貢献であるだろう。そのような観点から考えた場合、人間好きの文学畑の者としては、溝口という個人がどのようにその歴史を生きたのかという視点をもう少し映像分析を通じて、しかし映像の領域を超える範囲において、導入してもらいたかったといったら、ないものねだりにすぎないだろうか。
竹峰氏の『〈救済〉のメーディウム』には深い感謝の念を抱かずにはいられない。ベンヤミンとアドルノという、無駄に忙しい大学人にとってもはや読む時間を見つけることの難しくなった難解な思想家を、単純化の危険を犯すことなくこれほど明快に、これほど身近なものとして提供するのは、筆者自身がその思想と懇切丁寧に向き合いつづけ、それに深く馴染んでいなければ不可能なことである。そうしてこのような研究対象に馴染むために必要な知的労力を考えると、それは気の遠くなるような成果だ。お陰でわたしですらうっすらとベンヤミンとアドルノが理解できたような気がする。それは大きな知的な歓びをもたらす経験であった。クルーゲという人物をもってくることによって、本書はベンヤミンとアドルノを、現在のわたしたちにまで近づけることを可能にした。それがこの書物の感動的な成果である。この本もまた、木下氏のジェンダーとは違った方面で、今日われわれを取り巻いている混沌に微かな光を投げかけてくれているのだ。ベンヤミン、アドルノ、クルーゲとともに「〈いま・ここ〉にある現場というヘゲモニー的体制に唯々諾々と従属するのではなく、いかに困難であろうとも、そしていかにささやかなものであろうとも、抵抗と批判を頑なに遂行しつづけ」(439頁)たいという思いを抱かせてもらえたことは、現況にあって、極めて貴重な体験だった。
二作ともにきわめて学究的な著作でありながら、現代を生きる読者に直截語りかけてくる真摯な問題意識に貫かれていたことに改めて敬意を表したい。木下氏も竹峰氏も自身を賭して著した著作であることにわたしはもっとも感銘した。