パネル5 芸術の自然史 ──無機的なものの生命化の位相
日時:2017年7月2日(日)10:00-12:00
場所:前橋市中央公民館5階501学習室
・アナロジーから分類へ──啓蒙主義時代の建築理論と自然史におけるモルフォロジー
小澤京子(和洋女子大学)
・ 水晶とカテドラル──ヴィオレ・ル・デュクの構造概念
後藤武(後藤武建築設計事務所)
・ 結晶、機械、芸術作品──ジル・ドゥルーズ「非有機的生命」概念の対象における差異と反復
石岡良治(青山学院大学)
【コメンテーター】岡田温司(京都大学)
【司会】後藤武(後藤武建築設計事務所)
本パネル「芸術の自然史──無機的なものの生命化の位相」は、18世紀末から20世紀にかけてのヨーロッパにおける芸術と自然史との関係を対象に、「芸術作品における無機的なものの生命化の位相を精査し、現代において芸術を思考することの可能性を開くこと」を目的とする。
小澤京子の発表は、啓蒙主義時代から19世紀初頭のフランスにおける建築思想史を、自然史をめぐる議論に位置づけ、建築の分類をめぐる言説における類似から分類学へという決定的な転換点を示すものであった。とくに「性格(caractère)」と「型(type)」をめぐる各論者の言説に注目し、分析をおこなった。「性格」とは当時の建築思想における規範であり、論者により見解は異なるものの、概して「建築はその性格によって形態が決定されるべきであり、また各々の建築物は自らの性格を明示せねばならない」というものである。これに対して、「型」とは「個別性を捨象した普遍的な」ものだと理解される。まず小澤氏は、「性格」を主観的に把握するいくつかの言説を参照し、その概要を提示した。なかでもル・カミュ・ド・メジエールは、その主観的、感覚的な「性格」理解において極北に立つものであり、内面の情念をいかに外観に表現するかという点でシャルル・ル・ブランの「観相学」とパラレルな関係にある。こうした感覚主義を排除したのがカトルメール・ド・カンシーである。カトルメールは、『系統的百科事典』において「性格」を「自然が各々の対象にその本質、特性、相対的な属性を書き付けるための記号」と規定している。また、同じくカトルメールは建築における理念型として「型」概念を定義している。それによれば、「型」とは複数の具体的な事物から事後的に認識されながら、現実の形態に常に先行する「起源」として構想されるものである。ジャン・ニコラ・ルイ・デュランは、『比較建築図集』において古今東西の建築をひとつの図面に配置し、こうした建築物の相互比較をおこなっている。つまり、建築の外観と一対一対応する「性格」を重視する建築論と、平面上に建築を並置し、比較・分類をおこなう思想とがあるということである。結論として小澤は、外観のアナロジーから比較による分類へ、一対一の対応関係から同一平面上の分類表へという、啓蒙主義時代から19世紀フランスにおける建築思想の転換を指摘した。
後藤武の発表は、19世紀フランスの建築修復家、建築理論家のウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクの〈le style〉の概念に注目し、その様態を示すことにあった。ヴィオレ・ル・デュクの〈le style〉とは、建築が基づくべき原理のことで、彼はこれを先行する生物学、比較解剖学における動物の構造の単一プラン説、ゲーテのモルフォロギーを参照している。小澤の発表でも言及されたカトルメールやデュランによる、建築の外観と機能とを相関関係におく分類の体系は、アカデミーで制度化されることで次第に折衷主義ともみなされるようになったという。ヴィオレ・ル・デュクは、こうした折衷主義に抵抗し、近代建築がもとづくべき原理〈le style〉の必要性を説いたのである。この原理は、基本モデルとしての水晶、ゴシック建築、鉄による機械論モデルとから説明される。まず、デュクは水晶を自然界の〈le style〉の基本単位として考え、ゴシック建築の材料となる石灰岩からモンブランの山々にまで水晶構造を見出している。ついで、解剖学に依拠しながら哺乳類の骨格と鉄の機械との間に構造的な相同を見ていたことが指摘された。さらに、デュクがゴシック建築の修復に鉄材を用いたことから、彼がゴシック建築の構造原理を拡張するものとして鉄という素材を捉えていたことが示された。つまり、デュクはゴシック建築を参照することで、鉄と石を組み合わせた19世紀の新たな建築様式をつくりだすことを目指していたのである。このデュクの提案は、20世紀には鉄筋コンクリート建築へと姿を変え、近代建築の発展をも推し進めることとなる。発表を通して、近代建築の動力因としてのデュクの姿も明らかとなった。
最後に石岡良治の発表は、前二者の発表とはやや時代を異にし、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの「非有機的生命」の概念について、ヴィルヘルム・ヴォリンガーへのドゥルーズ(=ガタリ)の言及に注目することで、その内実と変奏を明らかにするものであった。石岡は、「ドゥルーズと芸術」をめぐる先行研究において、しばしば芸術作品とドゥルーズの思想とを直接結びつけるモデルが採用されるのに対して、『シネマ』における『カイエ・デュ・シネマ』の諸論考の「理論」へのドゥルーズの多大な参照をもとに批判を向ける。この「理論」の位置づけを考えるためにヴォリンガーを参照することは、「芸術史」とも「芸術哲学」とも異なる、「ドゥルーズの芸術学」を想定する可能性を与えるものだという。また、ドゥルーズによるヴォリンガーの援用を考察することは、この哲学者の特異な自己(非)引用のスタイルについて再考することへも寄与するという。まず、初期の論考から『シネマ2*時間イメージ』にいたる著作の中で、「結晶」が「個体化」の範例であるだけでなく、「非有機的生命」の範例でもあることが示された。ただし、この「生命」はアニミズム的なものではなく、「非有機的なもの」から「有機的組織」を規定するようなものだという。したがって、この概念は芸術へと適用される。石岡によれば、非常に類似した問題意識をもっていたものの、『アンチ・オイディプス』時点ではドゥルーズはヴォリンガーを読んでおらず、『抽象と感情移入』仏訳を機にその思想に触れることとなる。以降、『千のプラトー』、『感覚の論理学』、『シネマ』といった著書において、積極的にヴォリンガーの拡大適用をおこなっている。こうした自在な援用はややもすると恣意的なものに思われるが、その人種主義的側面を解き放つ肯定的な帰結をも生んでいるという。それが「エジプト」、「ローマ」といった定住民から美術様式を把握することを越えた、「スキタイ芸術」へのモデルの拡大適用である。ドゥルーズは、ヴォリンガーの「ゴシックの線」についての記述をスキタイ芸術に適用することで、そこに表現特徴を統合する線の速さと動物のモチーフの緩やかさの対立と結合を指摘している。石岡は、ドゥルーズの恣意的ともとれるモデルの拡大適用がスキタイ芸術の魅力的な記述を生んでいると述べ、こうした「胡乱な魅力」を消去することなく捉えることが美学・芸術学・美術史へのドゥルーズの寄与を明らかにするための端緒となると結論づけた。
コメンテーターの岡田温司からは、総論として以下のコメントが寄せられた。本パネルの三名の発表は、どれもモダンへの回帰が問題となっているように思われる。それは近代の再考であるとともに、ともすればモダニズムへのノスタルジーとも受け取られかねないものである。こうした回帰は、現在のポスト・ポストモダンともいうような知的状況を踏まえた戦略的なものなのかどうか。これに対して、小澤氏はモダニズムの見直しという意図を明確にもっているわけではないと断ったうえで、ルドゥ研究に始まる自らの問題意識がモダニズムにおけるモダンな言説の問い直しにあると応答した。後藤氏は、今回の発表が、ミース・ファン・デル・ローエらモダニズム建築家の歴史性と自然への志向との分析を通じてモダニズムの可能性を明らかにしたこれまでの研究延長線上にあり、モダニズムへの回帰が意図的なものであると答えた。石岡氏は、自身の普段の活動がポピュラーカルチャーの分野にあることから、今回のような発表が相対的にモダンへの回帰に見えるのではないかと述べた。
フロアからは三点、質問・指摘があった。ひとつ目は、パネル全体を通じて自然史=博物学という理解がなされており、ダーウィンの進化論によって示された時間感覚がいかに芸術のなかでとらえられてきたかという視点が欠けているのではないかというもの。種の概念の導入など、進化論は自然の把握において大きな転換点となっており、そのことをきちんと踏まえなければならないという指摘だった。ふたつ目は、18世紀における「プラン(plan)」という語の多義性についての確認をおこなうもの。最後は石岡氏の発表について、西ヨーロッパにルーツをもつゴシックが19世紀という国民国家の時代にリバイバルされるのは当然のように思われるが、このこととの関係でドゥルーズのゴシック再評価をどのようにとらえるかという質問だった。これに対して石岡氏は、ドゥルーズが反組織化(organisation)による反ファシズムを意図しており、その目的にしたがう限りで本質主義をさほど問題としていなかったと応答した。
総じて充実したパネルだったが、時間の関係から発表者間で十分な議論がなかった点は残念であった。しかし、本パネルのテーマを人文学と自然史ひいては自然科学との関係を問い直すものであったと理解するならば、聴者それぞれが自身の研究においてその問題意識を引き継いでいくことができるはずである。
居村匠(神戸大学)
パネル概要
18世紀後半から19世紀にかけて、ヨーロッパの芸術史の確立には、比較解剖学を中心とする自然史研究のパラダイムが大きな影響力を持った。一つの原理という折紙を折り分けるように、甲殻類から哺乳類に至る多様な有機体が生成する仮説を構想したジョフロワ・サン=ティレールや、地質から植物、動物が種をこえてメタモルフォーゼしていく原理を生み出したヴォルフガング・フォン・ゲーテらによる自然史の原理は、ヴィオレ・ル・デュクやゴットフリート・ゼンパーによって芸術に適用され、芸術の歴史がトランスフォルミスムとして定式化されていく。
本パネルでは、18世紀末から20世紀にかけてのヨーロッパにおける自然史と芸術史との関係を解剖する。小澤は、啓蒙主義時代における建築理論の変容が、形態と分類をめぐる概念を鍵として、同時代の自然史や生理学の思潮と共通の認識枠組を持っていたことを示す。後藤は、19世紀の建築史家デュクが自然史における形態学や有機体についての思考に基づき、建築の構造解釈を行おうとした点に着目し、その建築思想の新たな解釈を行う。石岡は、20世紀の初頭に中世北方ヨーロッパのゴシック美術の無機的で抽象的な装飾の中に表現的な生命の力動を見出したヴィルヘルム・ヴォリンガーに対する、ドゥルーズの分析(「非有機的生」概念など)の創造的解釈を試み、従来の哲学研究が到達できなかったその美学的・美術史的な意義を導出する。
芸術の自然史を辿り直すこと。それは決して全体主義的な有機体論に同化することでも、アントロポモルフィスムに回帰することでもない。本パネルの目的は、芸術作品における無機的なものの生命化の位相を精査し、現代において芸術を思考することの可能性を開くことにある。
発表概要
アナロジーから分類へ─啓蒙主義時代の建築理論と自然史におけるモルフォロジー
小澤京子(和洋女子大学)
啓蒙主義時代のフランスでは、建築の形態と分類をめぐる言説が、類似関係に基づくものから、体系的な分類学を志向するものへと、次第にしかしラディカルに変移していく。この移行は、自然史におけるアナロジーから分類学へという動向とも一致する。
発表者はすでに、フランス革命期の建築家ルドゥの建築思想と同時代の観相学との間に共通の発想があることを明らかにした。本発表では、18世紀半ばから19世紀初頭のフランスで執筆・刊行された建築書(J.F.ブロンデル、ブレ、ルドゥ、カトルメール・ド・カンシー、J. N. L.デュラン)の言説と図面に対象を広げ、建築理論に現れた認識の変化を解明する。
この時代の自然史や生理学の動向は、17世紀のル・ブランからラヴァーターやカンペルを経て、キュビエやサン=ティレールの比較解剖学へと変質しつつも受け継がれていく観相学・骨相学的な発想と、リンネによる体系的分類の完成に概括できる。当時の建築理論と自然史をつなぐのが「カラクテール(性格/特徴)」という語であり、これは「目に見える外観上の特徴」とより内在的な機能や抽象的な分類とを結びつける概念であった。またこの概念は、事物の外観の「可読性」を基に体系化と分類を試みる発想に支えられており、これは同時代の事典編纂や普遍言語探求の思潮とも共通する。
啓蒙主義の時代における、建築構想と自然史との間に存在した思考の共通基盤と、その変移の(ときに矛盾や撞着を含んだ)プロセスとを明らかにするのが、本発表の目的である。
水晶とカテドラル─ヴィオレ・ル・デュクの構造概念
後藤武(株式会社後藤武建築設計事務所)
ヴィオレ・ル・デュクは『中世建築辞典』第8巻の項目《le style》において、植物や鉱物、山脈の地形形成から建築物に通底するかたちの生成原理として、《le style》という概念を提起する。自然界の生成物にはすべて《le style》が存在するが、人工物たる建築物で《le style》を保有するものは少ない。だから《le style》のある建築物を設計する方法論を見出す必要があるとデュクは論じる。この論理には、ラマルクとジョフロワ・サン=ティレール、そしてヴォルフガング・フォン・ゲーテの自然史を巡る思考が流れこんでいる。デュクがかたちの生成原理のモデルとして考えるのは、水晶の結晶構造だ。ゴシック建築の構造原理もまた、水晶の結晶構造とのアナロジーで解読される。さらにデュクのゴシック建築の構造解釈において特徴的な概念として、「均衡の原理」がある。デュクによればゴシック建築は切石組積造の中で最も高度な構造原理に辿り着いたが、その原理を端的に説明するものの一つが「均衡の原理」だ。例えばディジョンのノートル・ダム大聖堂は、諸力が拮抗する動態的な状態として静止している。不動の量塊ではなく、生きて作動している有機的な全体だとデュクは主張する。
本発表は、人工物としてのゴシック建築を動態的な運動において捉えるデュクの構築思想を具体的に分析することを通して、デュクの構造理論に新たな解釈を与えることを目的とする。
結晶、機械、芸術作品─ジル・ドゥルーズ「非有機的生命」概念の対象における差異と反復
石岡良治(青山学院大学)
ジル・ドゥルーズ(1925-95)の「非有機的生命vie non-organique」概念は、彼の哲学を特異な生気論として特徴付けており、芸術論でも重要な役割を演じている。フェリックス・ガタリ(1930-92)との共著で展開された有機体への批判的考察は、「器官なき身体」としての「欲望する諸機械」という観点から身体論を刷新しつつ、芸術作品をも「機械」として捉える美学を打ち立てた。そこでは「生命」を有機体的な生気論の諸含意から解き放ち、芸術創造を既存の尺度に切り詰めることなく思考することが目指されていたといえるだろう。
けれどもドゥルーズの芸術論では、映画と絵画をともに「変調modulation」から考察するなど、対象領域の種別性を取り逃がすかのような記述がしばしばみられる。自著を引用しない代わりに、様々な対象に対して同じ説明を反復することで生じているこのような傾向性を、どのように捉えたらよいのだろうか?
本発表は、ドゥルーズの「非有機的生命」概念にかかわる説明の反復について、美術史家ヴィルヘルム・ヴォリンガー(1881-1965)の著作を手がかりに解明を試みる。ヴォリンガーのゴシック論に「非有機的生命」の範例を見出すドゥルーズは、しばしば本質主義的・民族主義的に解されてきたヴォリンガーの芸術論に新たな射程を与えるのみならず、ゴシック装飾という記述対象に取り組むことで、ドゥルーズの芸術論にひとつの脈絡が生まれている点に着目する。