パネル4 民話・伝説・言い伝え・都市伝説が表象する「場所」のありようについて
日時:2017年7月1日(土)16:00-17:30
場所:前橋市中央公民館5階504学習室
・炭坑記録画家・山本作兵衛が描いた『ヤマと狐』が表象するもの
鳥飼かおる(九州大学)
・「裏日本」の美学と地域の表象
アレクサンダー・ギンナン(鳥取大学)
【司会・コメンテーター】向後恵里子(明星大学)
パネル4では、民話、伝承、絵画、写真、政治的言説や経済的言説の分析をとおして、場所の表象をめぐる意味論的−美学的考察が試みられた。
鳥飼かおるは、山本作兵衛の《ヤマと狐》を主題に据えつつ、モチーフとして描かれたキツネが象徴するものを読み解くこと、そして、この絵画作品のコンテクストとして投影された筑豊炭田を意味づけることを試みた。従来、炭鉱にかんする歴史と文化の考察は、朝鮮人の強制連行や過酷な労働環境といった要素に集中する傾向があり、それをふまえる鳥飼は、表象「そのものに」向かい合う必要があると主張する。そのうえで鳥飼が依拠するのは、記号論と場所論という方法であり、参照するのは、山本の元炭鉱夫としての経験、描いて語り継ぐことにかんする心情、キツネの伝承における不吉な意味性、さらに、場所としての筑豊に強く刻印された皮膚感覚としての死である。記号論と場所論の方法論上の妥当性を強調しつつ、一連の参照項のそれぞれを支える資料の厚みを示したうえで提示される結論は、キツネが死を象徴していること、《ヤマと狐》はキツネと死が筑豊炭田という場所で、山本のセンティメントを媒介して結びついているということであった。
アレクサンダー・ギンナンが「裏日本」という概念と鳥取という地域に焦点を定めつつ検討するのは、裏と表、陰鬱と明朗、地方と中央、貧困と富裕、第一次産業と第二・三次産業といった二元論を相対化する表象である。19世紀末に本州日本海側地域を指す用語として定着した「裏日本」は、1960年代に放送禁止用語となると同時に、「裏日本」形成の諸相が地理学、歴史学、社会学の研究テーマとして浮上する。その一連の考察はいずれも裏、陰鬱、貧困、農業という要素を前提とするものであり、表象の面でも1957年出版の濱谷浩『裏日本』という写真集がこの二元論を補強する役割を果たした。この現状に対してギンナンは、1919年結成の「光影倶楽部」という鳥取のアマチュア写真団体とそのメンバの塩谷定好を取り上げ、それらの作品はかならずしも先の二元論におさまらないこと、そして、都市生活者のノスタルジィをかきたてる定型表現からズレていることを強調する。そのうえで、従来の視覚文化研究が「表日本」の文脈にのみ拘泥した結果、分析されない、もしくは、分析しきれていない表象が多数残されていることが結論として指摘された。
その後コメンテータの向後絵里子は、あらかじめ自身が用意したスライドをもとに、場所の表象を考察する際に必要となる観点として以下を提示した。つまり、日本近代の「風景」にはあらかじめ西洋の価値観がすり込まれていること、そこではアノニマスな場所がかたち作られるとともに、共通の心象風景として政治性が立ち上がってくること、写真と場所という問題圏ではまなざしという要素は切り離せないこと、ドキュメンタリとしての写真に顕著なゼロ距離もしくはゼロを偽装する距離のこと、場所と作家の空間的−時間的距離は抜き差しならないかたちで表現とかかわってくること、などである。鳥飼とギンナンの発表を整理する補助線として以上が提示されたのち、ふたりにたいしてとりわけ空間的−時間的距離の問題を詳細に検討することと、場所と生のかかわりについて仔細に分析することの必要性が指摘された。
質疑応答ではフロアより示唆に富む複数の疑義が呈された。鳥飼にたいしては、山本の炭鉱画は時間的な距離が織り込まれているという事実をふまえたうえで、「キツネが疱瘡を剥ぐ」という表現をより繊細に分析すべきではないかという意見が出た。たとえばそれは、近代を素朴に懐かしむ向きにたいして、前近代がそれに抗するように近代の罪を指弾する表象として解釈されうるという意欲的かつ重層的な読みも提示された。ギンナンにたいしては、塩谷の作品はイデオロギーには染まらない、透明に鳥取という具体的な場所を写すものではなく、モダニズムの様式に貫かれた非−場所の表象にもなっているという意見が出た。また別の意見として、ギンナンが鳥取の表象として提示した塩谷や植田の作品は、すぐれて構成的な表現であるのはあきらかであり、結果、今回の発表構成では「裏日本」という場所が作家のまなざしによる再構成を介さなければ表現できない過酷な場所だという「現実」もしくは二元論が、逆に浮き彫りになってしまうのではないかという指摘もなされた。
ポストコロニアル的言説がすでに敷衍した現在、周縁という属性を個人のアイデンティティに投影することによってイデオロギーを逆照射する試みは、もはやきわめてオーソドックスな方法であるともいえる。そのオーソドックスさを陳腐さと評価することは、ある意味では自然な流れでもあるだろう。その意味で、本パネルのふたつの発表は、つぎの場所への一歩を踏み出すチャレンジングな取り組みであったことはまちがいない。他方、その踏み出す軸足が置かれた場所にも、いまだ語るべきことは残されているようである。もはや「まなざし」や「生」といった用語がジャーゴンとして響くように思われることもままあるが、それでもなお、それらをかいすることで掬うことが可能な意義もあるだろう。すくなくとも、本パネルのコメンテータや質問者が提起したいくつかの問題は、そう思わせるに足る厚みがあった。
報告者にとって、この質疑応答まで含めたダイナミックな議論の振幅はきわめて刺激的であり、本パネルのパッケージとしての完成度に感銘を受けたしだいである。じつは本パネルは、発表者がひとりの状況から公募を経て成立したという経緯があり、結果、発表がふたつのみという他パネルとは異なる構成となった。しかし、司会とコメンテータを担当した向後の充実したコメントと、鋭利かつ生産的な観点を提示したフロアからの複数の質問が、このパネルをぐいぐいと昇華させていく様は、感動的でさえあった。最初から最後までオープンであり、風通しのよい議論が展開されたのは、このパネルが公募というフェアな契機によって、あらかじめ多孔性という特徴を帯びていたからでもある。議論をクローズドにしないためにはその場の構成自体から気をくばる必要がある。そうした気づきをもたらしてくれた鳥飼をはじめとする本パネルの参加者に、あらためて感謝したいと思う。
杉山博昭(早稲田大学)
パネル概要
本パネルは、ある特定の地域に伝わる民話や伝説、言い伝え、都市伝説などが表象する「場所」のありようについて、考察することを目的とする。
ここで言う「場所」とは、地理学者のエドワード・レルフが『場所の現象学 没場所性を超えて』(1975/1999)の中で論じた、「日々の営みのなかで、私たちが暮らし、知識を得、直接に経験する背景や状況」の一現象である「場所(Place)」のことである。
日々の暮らしの教訓や戒め、面白い、怖い、楽しい、悲しい、時には、整合性が全く存在しない数多くの「物語」は、日本国内のみならず、世界中で時代を超え、口伝てに語り伝えられてきた。現今であれば、インターネット上の書き込みやブログ、SNSなどにおいて、日々「拡散」されてもいる。
そうした多種多様な「物語」は、果たして語られた「場所」の何を表象するものなのか。そして聞き手/読み手に何を伝えようとしているのか。具体的な民話や伝説、言い伝え、都市伝説などを取り上げ、分析することを通して、それらが成立し、語られた/聞かれた時代や社会情勢を色濃く反映させた「場所」を読み解くための、新たな一助となることを目指す。
発表概要
炭坑記録画家・山本作兵衛が描いた『ヤマと狐』が表象するもの
鳥飼かおる(九州大学)
本発表では、福岡県北部に位置した筑豊炭田の元炭坑夫・山本作兵衛(1892〜1984)の炭鉱記録画、『ヤマと狐』(1964〜67年頃)が表象するものを考察する。
絵は、明治33年に麻生(あそう)上三緒(かみみお)炭坑で発生したガス爆発で負傷した男が自宅で療養していた際に起こった「大珍事」を描いている。夜中に突然、男の家に医者2名を伴った大勢の見舞客が訪れた。家族の者が看病疲れで寝込んでいる間に、医者は包帯を取り、治療を始めた。夜が明けた時には見舞客は誰もおらず、男は全身の皮を剥かれ、息絶えていた。
山本は、絵に添えられた詞書に、
こんな怪奇な事件が起きるとは一寸眉唾ものだが実際にあった事だから致方がない。狐は火傷のヒフ、疱瘡のトガサを好むと言う。
と締めくくっていた。この絵は、山本が描いた明治〜昭和初期までの「筑豊」という「場所」の何を表象しているのか。
筑豊炭田にまつわる言説や諸研究は主に、炭鉱労働者が置かれた悲惨な状況、昭和20年代のエネルギー革命の影響で相次いだ労働争議や炭坑閉山時の「場所」の荒廃、そして主に第2次世界大戦当時の「朝鮮人強制連行」問題が強調されてきた。本発表では『ヤマと狐』を通して、繰り返すべきではない過去を含む、「筑豊炭田」の「場所」のありようを検証するため、「描かれたもの」そのものの分析、そして狐に「意味づけられてきたもの」を具体的に検証する。
「裏日本」の美学と地域の表象
アレクサンダー・ギンナン(鳥取大学)
「裏日本」という言葉がある。それは、1960年代に放送禁止用語となり、現在はあまり耳にしない。裏日本は、19世紀末に本州の日本海側地域を指す地理学用語として登場したが、近代化が進むにつれて本州の太平洋側地域に比して日本海側の発展の遅れを示唆するようになったのである。
1957年に東京の写真家濱谷浩(1915-1999)は、青森県から山口県にかけて日本海側の12府県の様子を写した写真集『裏日本』を発表した。厳しい自然環境のなかで昔ながらの生活と過酷な肉体労働を行っている人々に焦点を当て、日本海側地域の村落と太平洋側の近代都市との激しい落差を訴えかけたのである。一方、濱谷が裏日本を撮影してきた唯一の写真家ではない。日本海側に位置する鳥取県では、1920年代から様々な技法で地域の様相をカメラで切り取る写真家が活動している。塩谷定好(1899-1988)や植田正治(1913-2000)などの表現者は、自らの活動拠点となる裏日本を、濱谷とは別の形として捉えていたのである。
本発表では、これまでの学術研究においては地域格差を生んだプロセスとして取り上げられてきた「裏日本」を美学と表象の観点から分析し、鳥取県で表現活動に取り組む写真家が主張する場所のありようについて考察したい。