パネル13 芸術家と自己表象
日時:2017年7月2日(日)14:00-16:00
場所:前橋市中央公民館5階503学習室
・ ジョルジョ・モランディの自己表象──チェーザレ・ブランディ「モランディの歩み」を通して
遠藤太良(京都大学)
・ 古典理解の顕示を通した自己イメージ戦略──Ch゠V・アルカンによるモーツァルトへの言及を例に
村井幸輝郎(日本学術振興会/京都大学)
・そして彼は神話になった──芸術家のイメージ形成における評論・伝記の寄与
片桐亜古(札幌大谷大学)
※当初のプログラムから発表順序の変更があったため、実際の発表に即した順序で掲載しています。
【コメンテーター】岡本源太(岡山大学)
【司会】杉山博昭(早稲田大学)
「芸術家」と「自己表象」というキーワードを目にしたとき、自画像や自伝小説を思い浮かべたが、本パネルで主題となったのは他者の手を借りた自己表象であった。芸術家による彼自身の表象ではなく、批評や作品解釈を通して示された芸術家像とその成立をめぐる駆け引きが問題とされたのである。みずからの手によらない表象のなにを「自己表象」とみなすのか、そして、発表で扱われた「自己表象」が個別の芸術家あるいは思想家研究のなかでもつ意義に着目しながら、まずはそれぞれの発表を振り返りたい。
遠藤太良氏の発表ではチェーザレ・ブランディのジョルジョ・モランディ評「モランディの歩み」が取り上げられた。モランディと手紙を交わし彼の意見を取り入れながら執筆にあたった結果、ブランディのテクストは、画家自身による「検閲」を受けて出版停止に追いやられたフランチェスコ・アルカンジェリによるモノグラフとは対称的に、画家から高い評価を受け続けた。これらの事実から「モランディの歩み」にはモランディの自己表象が投影されていると考えられると言う。その内実のうち、発表で着目されたのは1920年頃の作品(形而上絵画)における他の画家との関係性と1930年代の作品に対する評価に関する部分である。1920年頃の作品にアルカンジェリがデ・キリコやカッラの影響を見るのに対し、ブランディは当時の作品を共時的な関係性ではなくモランディ自身の探究と発展のなかに位置づけることでその重要性を評価した。そのブランディの意図は、モランディの独自性の主張にくわえ、形而上絵画が巻き込まれていた政治的状況(ムッソリーニの愛人、マルゲリータ・サルファッティによる批判)からの擁護であったと考えられる。また、作品を画家の試みの一貫性のなかで捉える姿勢は1930年代の作品に対する評価にも認められ、ブランディが「色彩の構築」の推し進められたものとして1930年代の作品を評価していたことを発表は明らかにしている。以上を通して遠藤氏はブランディを介したモランディの自己表象が、後のアルカンジェリの著作でなされモランディ研究の方向性を決定づけた解釈と大きく異なるものではなく、それゆえ「自己表象」と雖もかなり「妥当」なものとみなし得ると結論付けた。
続いて村井幸輝郎氏はシャルル=ヴァランタン・アルカンと「古典」の関係に着目し、言説(手紙)と実践(編曲)のずれから彼の「自己イメージ戦略」を明らかにした。アルカンは、ライバルの一人であるアントワーヌ・マルモンテルを批判する、フランソワ=ジョゼフ・フェティス宛の手紙で彼の古典理解の不適切さを指摘し、マルモンテルが古典作品の編曲を手掛けることに反対の意を表明した。古典作曲家たちの名前を挙げながらマルモンテルが彼らの作品に与え得る悪影響を推測するなかで、アルカンはとりわけモーツァルトの作品が音符や楽想指示の変更を受け付け得ないという理解を示している。村井氏はアルカンのこのような古典理解を踏まえてアルカン自身によるモーツァルト作品の編曲を分析し、手紙で述べられた理解と実際の編曲の方針が矛盾していることを指摘した。ここから、手紙の言説は、みずからの古典理解を表明すると言うよりも、受取人に対して自分こそが真の古典理解者であると主張する意図をもつ可能性が指摘された。しかしアルカンのこの「自己イメージ戦略」はフェティスの描き出したアルカン像に反映されることはなく、代わりに、皮肉にも宿敵マルモンテルの『卓越したピアニスト達』を通して後世へ伝えられることとなった。村井氏は、古典を利用した「自己イメージ戦略」の顛末を現代に見出す。つまり、マルモンテルの著した古典理解者としての言わば虚像のアルカン像は1960、70年代のアルカン・リバイバルとその後のアルカン再評価を支えたとするのである。
最後に片桐亜古氏はルイジ・パレイゾンの思想をもとに、他者による作品解釈のうちに芸術家の自己表象があらわれる可能性を論じた。パレイゾンの議論のなかで制作は形成性の理論と解釈理論というふたつの側面から思考されるが、それらはそれぞれ、形成活動がうまくいった際にあらわれる「所産的形」や作品の実態を開示する「イメージ」へ接近する一連の操作を捉えたものとみなし得る。片桐氏は、解釈理論の「はたらきかけ」という契機が形成性の理論における「能産的形」の役割にも敷衍できることを指摘し、ふたつの理論の構造的な類似を明らかにした。そのうえで、ふたつの理論を遡行させるようなかたちでパレイゾンにおける作品受容の在り方を導き出すことが試みられた。完成された作品を前にした受容者は、それを形成活動のうまくいったものであるところの「所産的形」と認識することで、「能産的形」の作用を受ける芸術家の立場(つまり制作中の芸術家の立場)にみずからを置くことが可能になると言う。受容者による解釈とはこのような形成活動のプロセスの再構成であり、そこに芸術家の自己表象としての活動様態が具現化されると結論付けられた。発表では例えば鑑賞や作品批評といった受容形態のどういった部分に自己表象が見出され得るのかという具体例は示されなかったが、受容者による形成活動のプロセスの再構成が「形成行為の続行」とされていたことに鑑みれば、ある作品に着想を得た諸表象をひろく芸術家の自己表象とみなすということだろうか。
コメンテーターの岡本源太氏ははじめにパネルテーマの背景となる研究史の流れを概観し、今回のテーマの意義を問うための下地を示した。美術史は伝記研究を脱却し作品分析に重点を置くことで確立され、実存主義や晩年のフーコー、グリーンブラットの新歴史主義における「作者」へのまなざしを経ながらも、基本的に作品やその社会的コンテクストを対象としてきた。それに対して本パネルは作品を捨象したかたちで議論を展開するものであり、具体的な芸術家を扱う遠藤氏と村井氏の発表は、芸術家がみずからの歴史(美術史、音楽史)的な立場と同時代の社会的な立場を確立するための言わば政治的な言動に着目したものである。岡本氏は遠藤氏の発表について、ブランディによるモノグラフの背景となるイタリアの政治的状況、つまりファシズム政権下の芸術家たちの論争に触れ、モノグラフがモランディとブランディの双方をそのような政治的状況から切り離し、孤高の存在としての同時代的な立ち位置をつくりだす役割を果たしていた可能性を指摘した。いっぽうで、村井氏の発表で扱われたアルカンの言動は、社会的な成功のために歴史(音楽史)的なコンテクストを利用しようとするものであることが指摘され、すでに生き残り歴史化された古典は社会的なコンテクストのなかでいかなる位置を占め得るのかが問われた。片桐氏に対しては、発表が個人としての芸術家の神話化や伝説化を前提としたものであることが確認されたうえで、受容者による制作行為の延長(反復)というパレイゾンの議論は創造行為自体、普遍的な集合的知性のようなものに繋がっていくものであり、作家の自己表象というレベルに留まらないのではないかという指摘がなされた。岡本氏のコメントは各発表の発展の指針を示唆するものであったと思われる。
フロアからの質問のうち全体に関わるのは、「芸術家と自己表象」というテーマ設定にたいして今回の発表では「芸術家(アルティスタ)」(≒「手職人(アルティジャーノ)」)の部分の考察が足りなかったという指摘であろう。テクニシャンとしても知られるアルカン、「現代の職人」とも呼ばれるモランディ、手仕事としての制作に重きを置く潮流のなかで理論構築をおこなったパレイゾンを扱ううえで、それぞれの「芸術家」としての側面や作品を捨象した方法に疑問が呈された。岡本氏のコメントやフロアの質問へ応答するなかで、発表者たちがよりダイナミックな議論をつくりあげてくれることに期待を寄せる。
井岡詩子(日本学術振興会)
パネル概要
我々が個々の芸術家に抱くイメージは、以下に形成されるのだろうか?本パネルは芸術家のイメージ形成と他者の関わりについて、二つの事例と一つの思想を追うことで、その多様な様相のいくつかに光をあてることを目的とする。
他者が関与する芸術家のイメージ形成といえば、まず伝記や評論の執筆が想起されよう。そこに、芸術家本人が検閲を加え、自らのイメージ形成の手段として利用した例として、20世紀イタリアの画家モランディが挙げられる。饒舌な他者の語りが、画家本人の主観に過ぎないものを「客観的」なものとして提示するにあたり、好都合な媒体となるのである。また逆に、古典となった物言わぬ他者を評することは時として、芸術家が見識のある自己としてのイメージを顕示する、格好の場を提供する。19世紀フランスの音楽家アルカンが手紙中で、および、編曲活動を通して繰り広げたモーツァルトへの言及を検討すると、そうした自己表象の提示戦略の好例が跡付けられる。以上の二つの事例を俯瞰する視点を提供するのが、20世紀イタリアの思想家パレイゾンの論稿である。パレイゾンは芸術家のイメージ形成における評論や伝記の寄与に着目し、作品の評価という観点から考察を進めつつ、解釈理論における作品鑑賞の一般的態度と彼らの鑑賞態度との差異を浮き彫りにしようと試みる。
以上の論旨により、芸術家における他者を介した自己の表象化を様々な側面から提示できると考える。
発表概要
ジョルジョ・モランディの自己表象─チェーザレ・ブランディ「モランディの歩み」を通して
遠藤太良(京都大学)
本発表は、20世紀イタリアの画家ジョルジョ・モランディ(1890-1964)の自己表象について、美術史家チェーザレ・ブランディ「モランディの歩み」(1942)を考察することを通して明らかにするものである。生前、自らの画業についてほとんど語ることがなかったモランディは、それに代わるものとして、懇意にしていた美術史家達に自身についての批評の執筆を依頼しその内容を事前に「検閲」することにより、他者の手による批評を自己表象のための手段として利用していた。こうした批評家との「合作」によるモランディの自己表象は、これまで、彼を、他の画家と一線を画し、堅固なフォルムを描き続ける画家として位置づけるものと解釈されてきた。そして、その代表的なテクストと見なされてきたのが先に挙げたブランディのモノグラフなのである。
しかしながら、このモノグラフの内容を、当時の他の批評言説を見据えつつ詳細に検討するならば、1930年代に多く見られるフォルムが融解する作品に対する積極的な評価など、先の解釈に留まらないモランディの画業が持つ多様な側面が記述されていることが明らかとなる。本発表では、これまで等閑視されてきたブランディのテクストにおけるそうした記述に着目することでモランディの自己表象に新たな一面を付与する。同時に、モランディの自己表象をブランディがいわば「代筆」した理由についても、ブランディ自身の思想等を踏まえつつ考察していきたい。
古典理解の顕示を通した自己イメージ戦略─Ch=V・アルカンによるモーツァルトへの言及を例に
村井幸輝郎(日本学術振興会/京都大学)
物言わぬ過去の芸術家、とりわけ古典と称される大家を巡り、自己の見解を顕示することは、当世の芸術の移ろいからは隔絶された普遍的価値なるものの理解者や擁護者として、自己のイメージを提示する格好の場となろう。本発表では以下の論旨に従い、19世紀パリの音楽家Ch=V・アルカンによるモーツァルトへの言及を、こうした他者を介在させた自己イメージの提示戦略として再考する。
アルカンは、自身を差し置いてパリ音楽院の教授職を射止めたマルモンテルを酷評する手紙で同氏のモーツァルト理解を批判し、また同時期にモーツァルトのピアノ協奏曲K.466をピアノ独奏用に編曲して出版した。極めて興味深いのは、マルモンテル批判においては手紙中でモーツァルトの楽想指示を「彼の天賦の才にかくも調和している」ものとして絶賛するアルカンが、編曲では楽想指示を19世紀的なやりようで原曲から少なからず変更・追加していることである。一見矛盾するこの二つの態度は、双方ともに自己イメージ戦略の一環であったと捉えれば、調停されうるものである。
以上の論旨を、当該編曲や同時代の類似の試みに関する先行研究を踏まえて論じる本研究は、19世紀パリにおけるウィーン古典派の庇護者としてのわれわれが持つアルカンのイメージの形成過程の一端を浮き彫りにするとともに、古典理解の顕示を通した自己イメージ戦略というトポスに考察に値する事例を提供することになろう。
そして彼は神話になった──芸術家のイメージ形成における評論・伝記の寄与
片桐亜古(札幌大谷大学)
時には存命中から──後の世まで神話のように語り継がれる芸術家像はいかにして生まれるのだろうか。本発表の目的は、イタリアの思想家ルイジ・パレイゾン(1918-1992)の論稿を参照しつつ、一人の芸術家をめぐり後世まで語り継がれるようなイメージが形成される要因について、評論家や伝記作家の評価という観点から考察することである。パレイゾンによれば、評論家や伝記作家の評価は以下の二点において特徴づけられる。第一に、評価の観点が作品の質・芸術性に限定されるということはない。作者の生き方をも視野に入れ、両者の相互連関に鑑みつつ作品に対する評価が与えられる。第二に、評論家や伝記作家による評価には、評価を与える者の恣意的な見解が加味される。これらの点において、彼らの作品鑑賞の態度はパレイゾンの解釈理論における一般的な作品鑑賞の態度、「読み(lettura)」もしくは「上演(esecuzione)」とは区別される。
この問題を考察するにあたり、発表者は彼の小論「芸術から伝記へ(Dall’arte alla biografia)」(1966)、「伝記から芸術へ(Dalla biografia all’arte)(1966)および「美学──形成性の理論(Estetica. Teoria della formatività)(1954)に編集されたいくつかの論稿を主要な参考文献として用いる。管見においては、作品や芸術家に対する評価を評論や伝記との関連において考察した彼の論稿に関する先行研究は前例がない。本考察により、パレイゾンの解釈理論の新たな側面に光をあてることができるであろうと発表者は考える。