パネル12 人新世/アントロポセンと人文科学
日時:2017年7月2日(日)16:30-18:30
会場:前橋市中央公民館5階503学習室
・「ポスト」から「クトゥルフの世」へ──ハラウェイにおける人間概念批判と連帯
猪口智広(東京大学)
・ダークインフォメーション──超人世あるいはポストニヒリズムの倫理感性的方便
原島大輔(東京大学)
・計算的理性と直観の盲点──1930年代のエピステモロジー的形象をめぐって
セバスチャン・ブロイ(東京大学)
【コメンテーター】北野圭介(立命館大学)
【司会】飯田麻結(ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ)
本パネルは、近年学際的テーマとして高い注目を集める「人新世」という概念を、人文学の領域から評価、再考することを目的とした。司会・パネル企画者の飯田麻結氏によるイントロダクションをベースに、猪口智広氏、セバスチャン・ブロイ氏、原島大輔氏ら三名が自身の専門分野に拠って立ち、それぞれの観点から人新世を読み解いていった。コメンテーターである北野圭介教授と発表者、聴衆らの間では、テーマにより深く踏み込んだ先鋭的な議論が交わされた。
飯田氏の導入は、現在人新世と呼ばれている概念の成立と背景を概観し、猪口氏以降三名の発表の共通基盤を示すものだった。2000年、大気化学者パウル・クルッツェンが提言した人新世とは、人類が地球環境に及ぼした影響により生じる地質学的区分であり、しかしながらその始まりの定義は常に論争の的となってきた。この用語はポストヒューマニズム、ニューマテリアリズムといった諸学問分野の主要概念と結びつき、人間中心主義の再考という人文学の中心的課題として立ち現れる。同時に、テクノロジーの発展によってもたらされた人類の「危機」を論ずるうえで、誰が誰を/何を「人間」とみなすのかという問いは避けることが出来ない。地球環境の変化の要因である人間を、自然の一部でありかつ歴史を俯瞰する存在として、いかに観察しうるのかという矛盾こそ、人新世という概念が提示する重要な問いであると飯田氏は指摘する。この矛盾を一種の「思考実験」として、三名のパネリストがそれぞれの専門領域から発表を行った。
猪口氏の発表は、フェミニズム、科学史など領域横断的に活躍する研究者ダナ・ハラウェイを取り上げ、人新世に関わる彼女の思想を通史的に概観するものだった。猪口氏はハラウェイの提唱してきた主要な概念を三つ取り上げ、「サイボーグ宣言」はポストヒューマニズムへ、「伴侶種宣言」は人類学へ接続されていったと論じ、近年新たに提唱された「クトゥルフ世」は人新世へ繋がるものとする。特に、サイボーグ宣言が人間と機械の楽観的な越境可能性として誤読され、技術脅威論への批判の側面が読み過ごされてしまった点の指摘は、現在に至るまでハラウェイが一貫して議論を重ね、そして人新世のテーマでもある人間、主体の再考に結びつくものである。時間の制約があり、ハラウェイの具体的な人新世の議論まで踏み込めなかったことが残念だが、特定の思想家の観点から人新世を考えるという点で、興味深い発表だった。
続くブロイ氏、原島氏の発表は、20世紀以降の人文学においてどのように「人間」が語られてきたか/いるのかを、異なる時代背景とアプローチから論じた、組となる議論だった言える。ブロイ氏は、感性と理性の分断が深まる20世紀初頭の近代数学が抱えた直観主義と形式主義の対立を背景とする、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機』の「直観」の概念を手掛かりに、技術によって身体化されたチューリングの新たなアルゴリズムの発案による直観主義と数学/演算との関係の断絶、ひいてはアルゴリズムと人間の身体感覚の切断を、科学史の知見を取り入れ論じた。形式主義とテクノロジーの融合の結果としてコンピューティングが成立する過程で、人間の思考の比喩として語られてきたコンピューターが、そもそも「機械的」な要素である論理と演算処理を除き、結局のところ何も機械化していない点、それに対し直観によって世界とかかわる現象学的人間像が新たな「人間性」の定義として説得力を増してきたとブロイ氏は指摘する。20世紀の人間性の考察においてコンピューターとの関わりを論ずることは不可欠であるとし、そうしたイメージの成立の歴史的条件の議論の必要性を問題提起した。
原島氏の発表は、人新世とはニヒリズムの逆襲であるという前提に立ち、フランシスコ・ヴァレラが提案するオートポイエーシス概念の問い直しを通じ、人間存在の二重性を捉えうるポスト人新世のエチカルノウハウを提示する。物質的開放かつ情報的閉鎖として位置づけられる「空」の概念こそ、形式論理的な知性を超えるダークインフォメーションでありながら、経験則的にノウハウしうる点において、中観的技法による観察スタイルへのアプローチ足りうると原島氏は提案する。飯田氏、ブロイ氏が指摘する人新世ないし20世紀の人文学が抱えてきた「人間性」のヴィジョンの矛盾、また人間の/による「観察」を取り巻く矛盾を、原島氏は「超人世」という新たな概念を提示し、「空」の絶え間ない例証の実践に向き合うための領域越境的「方便」の要請される状況を描きだした。
目まぐるしく変化する欧米の思想、哲学の潮流に身を置いていなければ、人新世はまた新たに誕生したばかりの人間中心主義および人文学批判/再考の概念のように思える。しかし、コメンテーターの北野教授がまず指摘したように、すでに欧米では人新世への批判が展開されており、人新世という概念自体が生み出した問題もまた議論されている。もはやこの語は人類史、地質学の「エポックメイキング」を指す言葉ではなく、むしろそのように近代以降の知の状況を見なす諸学問の思考の在り方こそ問うているのである。まだ国内のアカデミアに浸透しているとは言い難いこの概念に真っ向から取り組み、その概観の提示だけでなく発展的な議論をも日本語で展開したことは、本パネルの大きな意義である。
伊藤寧美(東京大学)
パネル概要
ノーベル化学賞受賞者Paul Crutzenと、珪藻の研究によって知られる生態学者Eugene Stoermerが2000年に提唱した「人新世/アントロポセン」は、人間活動が環境に及ぼした影響が、新たな地質学的な時代の幕開けを示すという仮説に基づいたものである。Stoermerは1980年代から同語を用いていたが、「人類の時代」を意味する人新世概念は、オゾン層の破壊や地層への化学物質の蓄積といった同時代的な懸念と関連づけられ、2000年を機に急速に広まっていった。しかし、人新世が我々に投げかけるのは必ずしも地質学的な問いのみではない。むしろ、人間をあらたな世(エポック)の中心的なアクターとして位置づける同語は、分野横断的な議論を巻き起こした。人間と非–人間(nonhuman)との不可分で偶発的なつながりを示唆するポストヒューマニズムや、オブジェクト指向存在論(OOO)、さらに科学技術と身体性をめぐる諸々の理論的潮流と交錯しつつ、人新世はこの惑星を構成する生態系における人間の位置をラディカルに問い直したと言える。地質時代の区分である「世」としての一貫性を維持するために、人間は数万年先の未来の予言者となるのだろうか。また、その際「人間」には誰が含まれ、それは自明なカテゴリーとして認識されるのか。人新世の課題は、混乱した時間性やアイデンティティに関する問題にとどまらず、種の絶滅や環境破壊を前提とした黙示録的なシナリオが、我々が今まさに生きている現実をいかに変容しうるかという問いをも内包している。既存の地質学的区分も決して政治的・文化的な判断から切断されえないように、人新世もまた我々の想像力を喚起する重要なトピックであることを念頭に置き、本パネルは、メディア論・思想史・美学といった人文科学の幅広い領域から同概念を考察することを目的とする。
発表概要
「ポスト」から「クトゥルフの世」へ──ハラウェイにおける人間概念批判と連帯
猪口智広(東京大学)
人新世における人間‐非人間の関係を論じる上で、近年の人類学の潮流が積み重ねてきた、「人間/非人間」「主体/客体」「文化/自然」といった二分法への批判的視座の重要性は疑いない。中でも、人間以外の存在をも含む「複数種のエスノグラフィー」を目指す論者たちに影響を与えているのが、人と犬の種間関係を出発点にダナ・ハラウェイが展開する異種共働の議論である。その一方で、ハラウェイの議論をいち早くから参照してきたのは、情報化やバイオテクノロジーの進展がもたらす「ポストヒューマン」的主体を論じる潮流であった。SF作品におけるサイボーグを「ポストジェンダーの世界の生物」と形容してアイデンティティの参照点とした「サイボーグ宣言」(1985)は、依然ポストヒューマニズムの理論的基盤のひとつであり続けている。
本発表ではハラウェイの議論を軸として、「ポスト」概念に対する批判的含意や、人新世に対置する「クトゥル新世(Chthulucene)」概念の提案を踏まえつつ、人新世における主体の問題系にフェミニズムやポストヒューマニズムの議論がもたらしうる知見について検討する。さらにこうした一連の「人間」概念批判を人間‐(非)人間の連帯構築へと接続する上で、情緒的紐帯や擬人化の様相からその評価の可能性を探る試みを行う。
ダークインフォメーション──超人世あるいはポストニヒリズムの倫理感性的方便
原島大輔(東京大学)
人間の時代には、自我や世界の同一性を無限に保証するべき大きな物語の無根拠と偶然性への不安がグローバルに感染し、私的規模の環境や政治を類的規模のそれらに解消し制御する危機の物語が連鎖しもする。人新世の存在論的心配症は、たとえば大量絶滅のニヒルな予感に切迫されて、我々なるものの恒常的な保全を計画しもしよう。だが、ここではこう問うてみたい。自我も世界も両者の関係も実在しないこのポスト真理の条件で、しかし反動的に絶対的なものに執着することはなく、むしろそれらへの執着をこそ笑い飛ばして現実的で潜在的なものを体現する、いわば超人世のスタイルが、時代区分を超えて生きられてはいないか。本発表では先行研究として、龍樹やニーチェらをふまえたフランシスコ・ヴァレラのエナクティヴアプローチとエチカルノウハウをあげつつ、その問題点を共同体と情動の2つの論点から指摘する。そこでさらに、フェリックス・ガタリやブライアン・マッスミらの倫理感性論、グレゴリー・ベイトソンの精神の生態学、西垣通の基礎情報学などを参考に、本発表は、生物としての人間という観点、すなわち非人間例外主義的だが生命と非生命はシステム論的に識別する観点を仮設し、情報的閉鎖系と物質的開放系の二重のシステム論でアプローチを試み、これをポスト人新世の非人文学的人文学的なメディアアートないし中観的技法のひとつのエチコエステティカルノウハウとして提案する。
計算的理性と直観の盲点──1930年代のエピステモロジー的形象をめぐって
セバスチャン・ブロイ(東京大学)
アントロポセンが「人造」の危機であるとすれば、その原型を西欧近代、とりわけテクノサイエンスの覇権に懸念を表した知的言説に見出すことができるだろう。1930年代、第二次世界大戦の前夜に『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を発表したエドムンド・フッサールはまさに、学問の実践に留まらず、人間主体の認識活動にも関わる「危機」に着目した一人である。ヒルベルト数学のように、「直観」(Anschauung)からかけ離れた恣意的な記号操作によって真理を追求する思考運動と、フッサール自身も含め、身体化された「直観」にこそ知の条件を求める思潮の対立は、当時のエピステーメーをゆるがす断絶そのものであった。
本発表では、フッサール『ヨーロッパ諸学の危機』を手がかりに、1930年代に顕著となったこの「直観」の危機という形象をめぐり、科学史・哲学史を横断する考察を行いたい。フッサールが懸念に思った「危機」が、やがて電子回路と記号論理の融合である「コンピューター」に結実したとき、もはや身体感覚では認識し得えないマイクロ時空性で作動する「記号的機械」が誕生し、そして科学技術は記号的動物といわれる「人間」のもっとも奥深い聖域へ浸透しはじめた。「人」新世の我々は、この出来事の余波を生きているからこそ、その淵源となった知的文脈をより深く理解する必要があるのではないだろうか。