パネル10 映画をきく ──スタジオ・システム崩壊までの日本映画の音楽
日時:2017年7月2日(日)14:00-16:00
会場:前橋市中央公民館5階504学習室
・浪曲映画と戦前日本の映画音楽
柴田康太郎(早稲田大学)
・小津安二郎『麦秋』におけるオルゴール音楽
正清健介(日本学術振興会/一橋大学)
・戦後日本映画のスタジオ・システムと音楽家──作曲家・芥川也寸志を例に
藤原征生(京都大学)
【コメンテーター】仁井田千絵(早稲田大学)
【司会】正清健介(一橋大学/日本学術振興会)
コメンテーターの仁井田氏は三名の発表に対しての応答の中で、本パネルを映像と音声をめぐるさまざまなアプローチを吸収したものであると位置付けた。すなわち、1)古くはエイゼンシュテインの理論やフェミニスト理論などにおけるサウンド理解、2)ジャンル研究や作家研究、90年代以降活発化したサイレント映画における音楽の研究などの歴史学的アプローチ、そして3)2000年度以降のラジオやテレビ、ニュー・メディアなどを含む学際的サウンド・スタディーズである。
柴田氏の発表はサイレント/トーキーという単純化された二分法的映画史理解を退け、30年代の日本映画のさまざまなトーキー実践に光をあてるものである。浪曲トーキーのテクスト分析に加えて、『キネマ旬報』や『映画評論』などに掲載された批評を用いることで、当時の映画制作者の物語世界と浪曲や音楽との関係をめぐる試行錯誤を描き出した。例えば、『力と栄光(The power and the Glory)』(1933年)で用いられた主人公の人生を知人の回想形式で語る「ナラタージュ」は、当時の日本の映画制作者が浪曲トーキーをめぐる批評言語として使っていた。『唄祭三度笠』(1934)は目新しい「ナラタージュ」を取り入れようとしながらサイレント時代の弁士の語りを模したような不十分な「ナラタージュ」理解が批判され、一方、『虎三の荒神山』(1940)では通常のナラタージュとして摂取されている。このような事例の分析を通して、柴田氏は日本の浪曲トーキーへのアメリカ映画の影響や浪曲と洋楽の様々な関係性を紹介した。
続く正清氏の発表は小津安二郎の『麦秋』(1951年)におけるオルゴールの使用に注目したテクスト分析である。『麦秋』は基本的に映画内の音源の位置に合わせて音の大小が変化する「音の遠近法」に沿ったものであるが、映画内に音源を持たないオフの音であり音の遠近法のルールから逸脱したオルゴールの音は、本作品の中で例外的な機能を果たしている。オルゴールから流れる「埴生の宿」の音楽は家族の幸福と離散というライトモチーフとして機能するわけだが、オフの音でありながら物語世界内にありそうなオルゴールの音は映画内の状況との連関を強く感覚に惹起させつつ、同時にそれを嘘だと印象付ける。一般的に、小津は「非物語的」、「無関心的」音楽を使用すると論じられるが、ここでは登場人物への感情移入を促進しつつかつオフの印象を与えたいという装われた偶然が見られることを正清氏は指摘し、さらにこのような音楽の使用とサイレントにおける伴奏音楽との関連を示唆した。
最後の藤原氏の発表はスタジオ・システム化の映画音楽家についての歴史学的産業分析的アプローチである。ラジオやテレビなどで活躍し、音楽家の地位向上にも活動した映画音楽作曲家の芥川也寸志は、五社協定下のスタジオの垣根をまたいで活躍していた。例えば、芥川は団伊玖磨や黛敏郎と「3人の会」を結成し京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊の学術調査記録映画『カラコルム』(1956)の映画音楽を3人で担当したり、様々なスタジオの作品の中でのちに《赤穂浪士のテーマ》と呼ばれるモチーフを発展させるなど、「超スタジオ・システム」的存在として活動したことが指摘された。
コメンテーターの仁井田氏は正清氏の発表に対して彼のフレームワークで小津映画全体への理解はどう変わるのかを尋ね、フロアからもオルゴールが同じ音楽を機械的に繰り返すことをどのように考えるのかといったテクストの解釈に関わる質問もあった。だが、コメンテーターからの質問も会場からの質問も主に事実関係や発表者が当たった歴史資料に集中した。例えば、柴田発表については浪曲トーキーと他の洋楽を使った映画との違いはどのようなものなのか、正清発表については小津の脚本にはこれらの音楽の使用についての指示がどの程度書き込まれているのか、藤原発表については作曲家の組合の実態や当時の著作権の理解がどのようなものであったのかが問われた。またパネルを全体としてみた場合、「スタジオ・システム崩壊までの日本映画の音楽」というパネル副題が示唆しているような、音楽とスタジオ・システムとの全体的通時的な関係が見えてこない点が指摘された。この点は、欠点というよりは、三氏の豊かな資料に基づいた発表によってこれまで十分に語られてこなかった歴史事実が明らかになったことに必然的に付随するものであり、今後、音とスタジオというテーマでの包括的な研究が待ち望まれる。
渡部宏樹(南カリフォルニア大学)
パネル概要
ほとんどの自然言語において「映画をみる」とは言うが「映画をきく」とは言わない。その言葉遣いには、映画は「見る(観る)」ものであり、「聞く(聴く)」ものではないという前提があることは明らかであるが、この前提は前提としてあまりにも看過されすぎた前提である。映画史はサイレントより始まるが、その頃すでに興行において音は映画の構成要素としてあり、1920年代後半のトーキーの到来を待つまでもなく、音楽を筆頭に、声や物音といった音響要素は、常に映画の画面と共にあった。むろん一部の音楽映画を除きその音響要素に積極的に耳をすませる者は少数派であったことは想像に難くなく、「映画をみる」という言葉遣いが歴然と示すように、今日においてもその状況は依然変わっていないと思われる。
本パネルの目的は、その少数派の「映画をきく」者達の視座に立ち、我々にとって身近でありかつ先行研究の蓄積のあるスタジオ・システム崩壊までの日本映画を、音という観点から再考することである。特に本パネルが取り上げるのは、音楽である。発表者は、この音響要素を、戦前の浪曲映画を対象とした映画ジャンル論(柴田)/戦後の小津安二郎映画を対象にした映画作品論(正清)/芥川也寸志の映画音楽を対象にした映画産業論(藤原)という3つのそれぞれ異なる形で論じ、戦前から1970年代初頭までの日本映画における音楽を巡る状況を多角的な側面から明らかにすることで「映画をきく」ことの意義を検討する。
浪曲映画と戦前日本の映画音楽
柴田康太郎(早稲田大学)
戦前の日本では、小唄映画、浪曲映画、ミュージカル映画など多様なかたちで音楽映画が製作されていた。先行研究のなかでも、とりわけこうした戦前日本の音楽映画については、笹川慶子が一連の研究のなかで欧米の音楽映画と比較しながらその特徴を指摘しており、浪曲映画についてもアメリカ映画と異なる視聴覚的シンクロのゆるやかな独特の音形式のあり方があったことを浮かび上がらせている(笹川 2010)。
しかし浪曲映画を中心的に扱う本発表は、笹川の考察を引き継ぎつつも従来の研究が対象としてきた小唄、琵琶唄、浪曲など歌としての「音楽」だけでなく、その背後で流れている伴奏音楽の「音楽」のありようをも交えて、「音楽映画」の音形式のあり方を再検証する試みである。日活の浪曲映画『紺屋高尾』(志波西果、1935)を端緒としつつ、東宝の『エノケンの森の石松』(中川信夫、1939)、『虎造の荒神山』(青柳信雄、1941)を分析することを通して、本発表は浪曲映画の伴奏音楽が浪曲そのものと同じように視聴覚的シンクロのゆるやかな音形式とともにあることを示すとともに、トーキー化を経た「音楽映画」というジャンルのなかでの音形式の多様化と再編成のあり方を示すことを試みる。
小津安二郎『麦秋』におけるオルゴール音楽
正清健介(日本学術振興会/一橋大学)
本発表の目的は、映画『麦秋』(1951)の3つのシーンで流れるオルゴール音楽のあり方を物語との関係において明らかにすることである。サセレシアに代表される小津映画の音楽は「無関心の音楽」と呼ばれるほどシーンとの「意味作用上の乖離」を特徴とする(長木 2010)。しかし、先行研究において、本作のオルゴール音楽は例外的に「平行法」の音楽としてシーンとの意味的連関が指摘されている(辻本 2011)。しかし、その指摘は主に旋律の明暗でシーンとの連関を論じるものであり、この音楽がオルゴール音楽である点や既成曲「埴生の宿」である点は十分に俎上に載せられていない。そこで本発表は、この2点を考察対象に入れることで音楽とシーンのより仔細な連関を探り、それが「平行法」の音楽として存立するまでの過程を各シーンで示される物語の推移を追いながら明らかにする。
また、本作において小津は「音の遠近法」を採用しているが、オルゴール音楽はシーンの場の移行に伴って聴取点が変わっても音色・音量に変化が見られない。そのような一本調子のオルゴール音楽は、オルゴールが映されないという事実も相まって音源を物語世界内に見出すことができない。これはミシェル・シオンの言う「オフ」に類別されるが、本発表は「オフ」の枠組に留まることのないその物語世界内の音に近い性質を明らかにし、最終的にこの性質が「平行法」の音楽としての存立過程に、ある特殊性を付与していることを指摘する。
戦後日本映画のスタジオ・システムと音楽家──作曲家・芥川也寸志を例に
藤原征生(京都大学)
近年、映画の産業としての側面に着目した研究が活発である。日本映画研究では、戦後映画の発展に大きな影響を与えたとされながらも従来学術的研究の機会に恵まれなかった「五社(六社)協定」の成立について一次資料を丹念に読み解いた井上雅雄(井上 2016)や、東宝の専属俳優だった池部良(1918-2010)の旧蔵資料から、彼が松竹の専属俳優だった佐田啓二(1926-1964)と共同でテレビドラマの制作を試みた史実を掘り起こし、その試みを「脱スタジオ・システム的共闘」と位置付けた羽鳥隆英の論考(羽鳥 2014)が主要なものとして挙げられる。しかし、これら先行研究の中で扱われるのは俳優や監督といった限られた範囲であり、多方面から終結した人材の協働による映画制作を深く理解するために、検討すべき箇所はまだ多く存在する。その一つが映画の音楽に関わる人的交流である。
本発表では、戦後日本の作曲界を牽引した芥川也寸志(1925-1989)の映画音楽実践を例に、当時の音楽家たちがいかにして「五社(六社)協定」を始めとしたスタジオ・システムの論理に取り込まれ、あるいはいかに「脱スタジオ・システム的」に映画音楽に携わっていたかの解明を試みる。芥川が《赤穂浪士のテーマ》を制作会社や作品ジャンルを超えて幾度も流用したことは、その際の参照項となる。本発表によって明らかになる音楽家と映画音楽との繋がりの一例は、産業史的映画研究の深化と、より多様で立体的な映画史の構築に貢献できるだろう。