第12回大会報告

パネル1 聴取をつくる ──聴覚/音響文化の諸場面

報告:宮木朝子

日時:2017年7月1日(土)16:00-18:00
会場:前橋市中央公民館5階501学習室

・「環境」からの逸脱──1970年代日本の現代美術における音響技術
金子智太郎(東京藝術大学)
・モジュレーションと音像──S・P・トンプソンの両耳聴研究をめぐって
福田貴成(首都大学東京)
・労働歌の構造と身体動作──野沢温泉村道祖神祭りの胴突唄
細馬宏通(滋賀県立大学)

【コメンテーター】大橋完太郎(神戸大学)
【司会】金子智太郎(東京藝術大学)


近年、2015年の『表象09』の特集「音と聴取のアルケオロジー」における聴覚/音響文化研究の近年の成果の紹介や討議、表象文化論学会第10回企画パネル「音と聴取のアルケオロジー」再論──「聴覚性」批判からの展望、といった聴覚/音響文化研究が活発化している。本パネルはこうした研究動向の流れのなかに位置づけられるものとして企画された。ここではタイトルにもあるとおり、聴取という行為やそれにまつわる現象が生み出されていくプロセスを、より具体的な諸例の分析によって明らかにしてしていく試みがなされた。

パネル組織者でもある金子智太郎氏の発表では、日本の現代美術という文脈のなかで音や聴取をめぐる認識がいかに変容したかを考察するため、大阪万博以前と以後における美術とテクノロジーとの関係が再検討された。70年の万博に結実する60年代後半の環境芸術理論、概念芸術、そしてもの派。これらを批判することにより立ち位置を明確化した70年代前半美共闘周辺の作家たちが、その中心的な対象である。その際これまであまり語られることのなかった環境芸術理論との関係から検証することが今回の主旨であり、それはどちらも音響テクノロジーの使用に意識的でありながら、そのコンセプトに明確な差異をもつからだ、とする。マクルーハンのメディア論を参照した中原佑介の環境芸術理論における聴取の実践では、ラジオや電子音などあらかじめつくられた音や既存の音源がもちいられ、音は連続的環境を充たすものとして捉えられる。それに対して万博以降の試みでは、環境音や声を録音するという手法が選択される。京都のギャラリー16周辺の作品では、特定のオブジェ-レコードや鉄板、鉛の容器など-に音を封印する、という方法が共有され、美共闘周辺の作家たちは、録音を繰り返し重ねていく「反復と堆積」、という方法を共有した。こうした作品のうち、発声の録音を重ねていくたび音の層が部分的に混じり合うことでうなりを起こし、環境音や装置が生みだすノイズに音が侵蝕されていくといった実例の記録が、発表のなかで再生されたが、ここでは音の背後に隠された音響メディアのネットワークの存在が暴力的に露わになってゆく圧巻の聴取体験が再現された。こうした試みにおいては、「音が環境を充たしている」という60年代からの意識の継承とともに、同時代の日常的なテクノロジーの展開、特にTVの影響が重視され、70年代日本の音響技術文化、すなわちラジオ番組をカセットテープに録音することによって私有化するエアチェックの文化に対する意識との関わりが指摘された。

次の福田貴成氏の発表では、聴取をめぐる19世紀の科学史とメディア史を題材にしながら聴取の近代性の一側面が論じられ、「聴取をつくる器官」としての耳の特質と、その発見を促すことになった同時代の知的背景が確認された。ここでは両耳聴取にまつわる二つの例が対比される。一つは1881年、アデルによるパリ国際電気博における電話回線をもちいたオペラ中継における、今日ステレオの起源として位置づけられる出来事であり、もう一つが1877年から1881年にかけておこなわれたトンプソンの両耳聴をめぐる実験である。どちらも左右の耳に与えられた異なる音を聴取するという点では共通だが、前者は音への集中による「レリーフと定位」という生々しい聴覚的な経験とされ、後者は注意というものが不在のまま、自動的に出来するイマジネールな局在化による知覚の体験とされた。トンプソンの実験では、左右それぞれの耳に振動数の僅かに異なる音を与えることで、物理的な干渉が存在しないにもかかわらずうなりが生じるという、「物理なきモジュレーション(変調)」が驚きをもって確認された。さらに、位相を反転させた音(逆相の音)をそれぞれの耳に与えることによって知覚される音響の、ありうるはずのない場所──「小脳の上部の不変の位置」──への局在化が生じた。このときの、物理的にはありえないはずの場所に知覚の自動性によって局在化する「音響の見かけ上の場所」に対し、知覚上の実在感としての視覚性の現われとして「音 ”像” ( the acoustic “image” ) 」ということばが与えられる。そしてそれは、正相の音をそれぞれの耳に与えた場合の、「耳のなかで (in the ears) 」と表現される、像を結ばない聴取体験と比較される。このようなありうるはずのない場所への音の生起の経験は、逆相による両耳聴の経験がもたらした、音が「どこに」あるのかという意識の先鋭化によるものである、と言及された。そうした種々の検証の結果、「生理学的身体にモジュレーションを施すことで、主観的イメージが自動的に産出される」というプロセスの分析こそがこの一連の実験の主眼であり、それは「主観的」に「つくられた聴取」の輪郭をくりかえしなぞりながら、その再帰的運動によって「主観性」の輪郭自体を曖昧化するプロセスであった、と結論づけられた。

次の細馬宏通氏の発表では、祭の準備に伴う共同作業における、聴取・歌唱・動作が分かち難く結びつく現象を例に、参加型音楽における聴取について考察された。冒頭に、前二つの発表における聴取の主体が静かであったり、徹底的に耳主義であるのに対し、自身の発表における聴取は動的主体的なものであるという違いがあるとの指摘があった。それはいままであまり着目されてこなかった社会的行為、とりわけ重いものを持ち上げたり、移動させたりするときの労働歌における、互いのタイミングをはかりあい、合わせる必要のための聴取である。ここでは野沢温泉村の道祖神祭における、雪中に巨木を立てる共同作業のための胴突唄を題材に、複数の身体の動作を同期化するために、そのリズムや音韻がその際の聴取にどのように貢献しているのかが具体的に検証された。一般的に労働歌においては聴取し合いながら相手の行動を予測することが必須だが、ここではさらに複雑な動作とタイミングの測り合いが必要となる。氏によって採譜された唄の例によれば、これはヴァースとコーラスという構造を持ち、ソロの呼びかけに対し、大勢がコーラスで応えるものであり、その後半のコーラスにはフレーズの繰り返しと、やがてそこに加えられる音韻やリズムによる変奏がみられる。動作が継続しているときにはそのまま繰り返されていたフレーズが、木を持ち上げるためにいったん腰を落とす、といった動作の変化が生じる際には、音符がこまかくなるといったリズムの精緻化が生じ、次のフレーズ冒頭の、巨木が持ち上がっているときの滞空時間の変化によって可変性が求められる部分については、その歌詞が延ばすことのできる音韻へと変化することによって次の準備動作のための合図になっていることなどが、分析によってあきらかにされた。 

コメンテーターの大橋完太郎氏からは、まず冒頭に、バタイユの低級唯物論のヴァリエーションとして、ロザリンド・クラウスの視覚的無意識における視覚を、聴覚というものに焦点化したものとしての本パネルの特徴が述べられた。そうした外部にある異質なものとして、金子氏の場合は空間芸術に対抗するための音というもの、福田氏の場合は異質なメカニズムをもった神経科学的な自動性が現出させる現象、細馬氏の場合はいわゆる近代的な主体ではないものによってつくられた共同性を疑似の単位とした身体が指摘された。また、聴取=écoute(listening)という語が語源的にもつ「(教会内の横側の傍聴席で)見ることなしに傾聴する」といった、指向的な視覚との対比として強調されていた指向的な聴覚についての指摘とともに、「聴取の体験を語ること」が持つ構造的な難しさがフッサールが引用するアウグスティヌスにおける時間論をひきあいに指摘された。そのうえで金子氏には、当時の批評的言説のなかでの音響芸術の意義についてが問われ、それに対する答えとして、美術批評などさまざまな領域の評論で音楽と他の芸術との結び付きをつくった秋山邦晴の名が挙げられたが、万博以降各ジャンルが孤立していくことになり、それが音楽と他ジャンルとをめぐる批評の転換点だったのではないかと述べられた。福田氏には、当時における「耳のなかで聴く」という知覚についてどのようなものとして捉えられていたかが問われ、それに対し、ヘルムホルツの無意識的推論における自動化と比較した上で、そこにある、外的対象というものを想定しないような耳に特化したものの考え方の存在や「in the ears」という複数形であることの奇妙さについて述べられた。細馬氏には、近年『搬入プロジェクト』や、『運ぶ人の人類学』においても指摘されている、重いものをみなでもちあげる面白さ、達成感についての言及と共に、腰を曲げて力をためるというのは日本の土俗の領域において特有なのかについて問われ、その答えとして、「運ぶ」「もちあげる」という人類の営みがある意味では歌の起源であること、また腰を落とすという動作に世界的共通性があるかは定かでないが、そもそも腰という言葉自体は共通であると述べられた。

質疑応答では、金子発表における、視覚芸術のなかであえて音をあつかう理由についての問いに対する答えとして、ある全体の状態というものを把握しようとする欲求から音に関心が向かったという環境芸術の理論と、その関心を継承しつつ異なる理念で探求しようとした美共闘の試みによって、もう一度美術との関係が塗り替えられていくことが発表の主旨であったと述べられた。また佐藤良明氏からは、細馬発表におけるプラクティカルな労働の歌に対して、たとえば黒人教会のなかで皆が踊って歌いながらそこに神という他者が現われてくるような状況との関連について問われ、それに対し先の例でもタイミングが合っているときは自他の境界が曖昧になり、ここには実際には存在していない何者かにその行為の主体を仮託するかのようなことも起こりうる、と答えられた。また金子発表に対する筆者からの、録音という行為を元にしたアクースマティック音楽における「いったんメディアに封じ込められた音の物質性が、空間への投影によって再び音楽としての時間性をとりもどす」、という特徴との方向性の相違の指摘に対し、同時代の試みでありながら、まだその関連性や対比などがなされていない部分のため今後の課題としたいと述べられた。さらに細馬氏への、労働のときに出る対象物が出す音やリズムが唄に作用しているのかについての問いには、唄の自発的なリズム構造の方が重視されていると述べられた。

本パネルでは、「聴取」という行為がまさにつくられる瞬間における聴取の様態について、多視点的な問題提起と検証がなされた。そこでは、環境に着目した芸術実践において創出される、音による変容をとげる場-日常的には感知しえない神経レベルでの知覚現象を現出させる身体という場-相互作用的聴取がおこなわれ、時には自他の境界が融解するような共同作業の場-といった、様々な領域と次元における聴取とその主体についての横断的な思考がうながされ、そのこと自体が刺激的に開かれた場を生むこととなった。

宮木朝子(東京大学)


パネル概要

録音入門書にはよくこう書かれている。波の音が前後に動いているように聴こえるのは視覚のためであり、録音を聞いても音量の増減を感じるだけであると。近年の国内外の聴覚/音響文化研究の成果や、それらをふまえた討論を通じて浮かびあがった論点のひとつは、聴覚の他律性だった。聴覚はしばしば視覚や身体運動に導かれ、役割を規定される。聴取や音響技術をめぐる議論でもよく視覚や視覚技術のメタファーが使われ、視覚との対比が強調されてきた。たしかに、五感すべてにこうした他律性を認めることができるだろうが、おそらく視覚以外の感覚にはその傾向がより明らかであろう。そしてこの他律性は感覚の複合性や可塑性のあらわれであり、感性の歴史をたどろうとする議論にとって欠かせない論点であるはずだ。

本パネルは、耳や音響技術の働きのみならず、他の感覚をふくむ身体全体や、さまざまな環境やモノの作用を通じて、聴取のありかたがつくられていく過程に焦点を合わせる。金子は、日本の現代美術という文脈のなかで音や聴取をめぐる認識がいかに変容したのかを考察する。福田は聴覚をめぐる19世紀の科学史とメディア史に材をとりながら、聴取の近代性の一側面を論じる。細馬は、協働作業における労働歌と身体動作の関係を記述し、聴取、歌唱、動作が分かちがたく結びつく現象を論じる。美術、科学、大衆文化と、各発表の対象領域は多様である。そこで討論ではこれらの議論をふまえて、人間の諸感覚と技術・芸術の協働についての一般的な考察も試みたい。

発表概要

「環境」からの逸脱──1970年代日本の現代美術における音響技術
金子智太郎(東京藝術大学)

本発表の目的は、日本の1960年代後半から70年代前半における音響技術を用いた美術作品の展開をたどり、そこに表現された音と聴取をめぐる認識がいかに変化していったのかを明らかにすることである。特に大阪万博をはさんで、音響技術を用いた表現には顕著な変化が認められるのではないか。この考察を通じて、戦後日本における音と聴取の歴史の一場面を描くとともに、万博以後の美術におけるテクノロジーとの関わりという問題にひとつの事例を提供したい。

1960年代後半における音響技術を用いた美術作品の傾向は「環境」概念に集約されよう。当時の文化全般の関心事のひとつだった「環境」は、東野芳明や中原祐介らによって美術理論に導入された。作品のありかたが孤立した物体から、連続的な環境の状態へと移行していくという主張がなされ、音は光や動きと並んでそうした環境の状態のひとつとして理解された。そして、当時の作家たちは既存の録音物や電子音、ラジオを使用して環境を音で満たしていった。

1970年代になると主に若手作家の作品に、電子音やラジオではなくマイクロフォンを用いて、周囲の音やパフォーマンスの音を取りいれるという方法が見られるようになる。例えば、美共闘周辺の作家はいわゆる「ピンポン録音」を応用した方法を共有していた。万博をはさむこうした変化は、音と聴取をめぐる認識のいかなる変化をあらわしているのか。本発表はこの変化を環境芸術理論の批判的継承として解釈したい。

モジュレーションと音像──SP・トンプソンの両耳聴研究をめぐって
福田貴成(首都大学東京)

1878年から1881年にかけて、英国の物理学者シルヴァナス・P・トンプソンは「両耳聴現象について」と題するいくつかの論考を発表している。これらにおいて主に記述されているのは、多様な器具を用いて左右の耳に相異なる音響を供給し、聴覚にいわば「変調」を施すことによって生じる主観的現象の様相であり、またその現象を出来させる要因に関する物理的・生理的・心理的な分析であった。トンプソンのこの研究は、基本的に、同時期における両耳聴研究の興隆のなかに位置づけられるものであり、さらには19世紀を通じての「聴覚的現象の主観性」をめぐる思考の一部として理解しうるものである。一方で、彼の実験観察の報告のうちには、そうした同時代性を超えて、20世紀後半の商用レコード音楽を通じて集団的に経験されることになる現象を先取りしている部分があり、またいわゆる「科学」研究の規矩を食み出して理解すべき点があるようにも思われる。

本発表では、トンプソンによる一連の報告の読解を通じて、①聴覚的器具の使用によって媒介された聴取主体の特異性をメディア的身体の系譜のなかに正確に位置づけ、②主観的聴覚という思考と「集中」という知覚のモードとの19世紀後半における交渉の様相を明らかにすることを目指す。そうした検討を通じて、彼の報告に胚胎されている時代性や「科学」という枠組みを超えた可能性の一端を指摘したい。

労働歌の構造と身体動作──野沢温泉村道祖神祭りの胴突唄
細馬宏通(滋賀県立大学)

野沢温泉村の道祖神祭りには、十数mのブナの御神木を数十人の人力によって雪中深く突き立てる「胴突き」と呼ばれる行事がある。雪上に仮に立てられた御神木は、根元近くに取り付けられた井桁を持ち上げる係と、幹の十m付近に結わえられて八方に伸びる「トラ」と呼ばれる綱を引く係の二手に分かれる。井桁係が一斉に井桁ごと御神木を持ち上げた直後に、トラ係が綱を引くことで、御神木は浮き上がり、その反動で雪中により深く刺さる。この胴突きの作業は「胴突唄」と呼ばれる歌に合わせて行われる。「胴突唄」は、年長者によるヴァースと全員の合唱によるコーラスの二部に分かれており、ヴァースとコーラスの前半で御神木を錐揉みするように「揉み」、コーラスの後半で井桁を持ち上げて綱を引く。これらの協働作業のタイミングは、とくにコーラス部分における歌のリズム構造と音韻構造に密接に関係している。本発表では、複数の参加者が合唱する「胴突唄」を、歌唱と聴取とが身体を介して相互に作用し合う現象として捉え直し、歌のもたらす相互行為について論じる。

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行