懇親会報告 「聖セバスチャンのうずら」の“痛み”とは?
アーツ前橋で開催された第12回大会の懇親会の食事は、食とアートの接点で活動するジル・スタッサールが担当し、開催日の前から学会員向けにその内容が発表されていた。
前菜6品
・グジェール/サーモンのリエット入り、山椒とレモンをのせて
・フェタとスイカのクミン風サラダ
・トマトと赤ピーマンのガスパチョ
・グリッシーニ
・ナスのクリームにアンチョビをのせて/胡麻のパンと共に
・キュウリのヨーグルト和え/紫蘇とシブレットといくらのせ/パン・オ・レと共に
メイン2品
・ブルゴーニュ風赤ワインの卵料理
・聖セバスチャンのうずら/ビターカカオのパスタと鶏汁と椎茸のブイヨンと共に
デザート
・バナナのロースト/チョコレートと共に/ペカンナッツを添えて
このコースのテーマは「痛み」であるとスタッサールは言い添えている。何が「痛み」なのだろう。期待と好奇心に胸を膨らませて前橋にやってきた私たちは、初日の全パネル終了後に懇親会場へと向かうことになった。
会場は、解体を間近に控えているという老舗宿泊施設の旧白井屋ホテル。その歴史は300年に及ぶのだという。石造りのがらんとした一階スペースに巨大な四角のカウンターが設けられ、料理と飲み物がつぎつぎとサーブされていく。キッチンはどこだろうと思って探すと、ついたてで仕切られた一角にガスコンロが三つほど仮設され、大鍋で準備がすすめられていた。
ブルターニュの郷土料理だというグジェールからコースは始まる。ミニカップに入ったスープ状のもの+手でつまめるパン類、という組み合わせがベースの型になっていて、立食で手にとって食べるのにまったくストレスがない。ガスパチョ、アンチョビ入りのナスのクリームは、どちらも衒いのない、すっと体に染み入るやさしい味わいである。きっと新鮮で安い地物野菜だろう。水がおいしく、したがって野菜がおいしい群馬の土地柄に想いを馳せた(かつて私は群馬女子大で非常勤をしていたとき、近くの農産物直売所のすばらしい手作り野菜弁当を毎週食べていた)。群馬といえば日本有数の小麦文化圏でもあり、水沢うどんがとくによく知られている。野菜と小麦のこの組み合わせは、だから群馬の当たり前においしいものをスタッサール流に再構築したものであると言えるだろう。土地に根差した安価な食材を無理なく生かし(懇親会費はいつもとかわらずとてもリーズナブルである)、手に取りやすい器でつぎつぎに提供する、その動線の見事さに感嘆する。だが予告されていた「痛み」はどこに?
その回答はメイン料理の「聖セバスチャンのうずら」で示された。串刺しにされて直立したうずらが、何十体もテーブルの上へと運び込まれる。ユーモラスではあるがどこかひとを慄然とさせる異様な光景である(ちなみに私は黒沢清の恐怖映画『CURE』の、祭壇に飾られた不気味な模型をただちに想起した)。さて、もちろん食べるしかない。すぐさま意を決した私たちは、ばりばりとこのうずらを貪り食べた。
「痛み」とは何だったのか。かつては生きていたこの鳥たちを殺して私たちの体内に取り込むということを、異様なヴィジュアルによってまざまざと想起させる効果を指して「痛み」と言っていると、まずは考えられる。だがそれだけのことではないだろう。廃墟めいた、とあえていうが、この旧白井屋ホテル一階のがらんどうの空間でこそ、この料理は、より深い水準の「痛み」を表現しえているように思われた。スタッサールはアーツ前橋で食をテーマに開催された展覧会のコンセプトブック『フードスケープ──私たちは食べものでできている』で次のように書いている。
食べることは、具体的な意味と象徴的な意味を併せもった行為でもある。(…)象徴的な意味とは、食べることを介して、異なる概念を組み込み、文化そのものを構築してきた。(…)食物にはまた、はかりしれないほどの暗示力があり、その象徴性ゆえに、典礼の場に供されてきた。いけにえを捧げる儀式で供された食物が、神々との交流を可能にするのだ。*1
*1 アーツ前橋『フードスケープ──私たちは食べものでできている』アノニマスタジオ、KTC中央出版発行、2016年、126頁。
旧白井屋ホテルはその歴史を閉じようとしているが、しかし、間近に再開発のプロジェクトを控えており、また、この当日のようにアートイベントに再利用されてもいる。うずらが何らかの儀式に供されているのだとすれば、それは、ある「場」の死と生の循環ないし明滅をつかさどる儀式ではないか。このような考えは、学会のメイン会場となったアーツ前橋がいかなる「場」であるかを説明した、同日のシンポジウム冒頭における住友文彦の言葉をコンテクストとするとき、より確からしく感じられてくる。住友曰く、高度経済成長期に発展を遂げるも、バブル崩壊後に空洞化の危機にさらされたこの地方都市は(探しても探してもコンビニの見つからない街だった!)、しかし、空洞の再利用を進めて確かな成果を上げた。その最たる例が、かつてのデパートを美術館へコンバージョンしたアーツ前橋にほかならない。アーツ前橋は21世紀の美術および人文学の一つの成功モデルになりうるかもしれないと住友は示唆する。「聖セバスチャンのうずら」は、これら文脈を踏まえて着想されたのではないか。
などと言ったら想像のしすぎかもしれない。しかし、廃屋に林立するうずら料理を背景に、DJブースでおそらくプラン通りに選曲された初期ローリングストーンズが鳴り響くと、その黒々とした音に合わせて少なからぬ若い参加者(と佐藤会長)がフロアで体を動かしていて、その光景を酔った目で眺めていると、この連想──うずらが「廃墟のうえの再生」の儀式に供されているという連想がやはり確からしく感じられてならないのだった。だとすれば「痛み」とは、再生の先触れとしての痛みということになるだろう。
また、翌日は、アーツ前橋に隣接するカフェから取り寄せたおいしいコーヒーが学会員に振る舞われた。REPREvol.29に「おいしい学会を目指して」という拙文を寄せたが、その直後に予想をはるかにうわまっておいしい学会が実現してしまったわけである。本大会は例年にも増して盛況だったが、それはプログラムおよび会場の魅力はもちろんのこと、食の充実によるものでもあったように思えてならない。