クリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論
本書は、アメリカの映画研究者のトッド・マガウアンが、2012年にテキサス大学出版より上梓したクリストファー・ノーランのモノグラフ『The Fictional Christopher Nolan』の全訳である。井原慶一郎によるこの日本語訳には、原著刊行後に公開されたノーラン作品をめぐってマガウアンが新たに発表した二本の論文も併せて翻訳・所収されており、ノーランの長編映画デビュー作である『フォロウィング』(1998年)から本書出版時はまだ最新作であった『インターステラー』(2014年)にいたるまでの全作品が分析されている。巻末には、中路武士の作成による「クリストファー・ノーラン作品解題」が付されている。
本書においてマガウアンは、主にヘーゲル哲学とラカン派精神分析に依拠しながら、ノーランが映画のなかで一貫して描いてきた「嘘」に注目する。マガウアンによれば、ノーランにとっては嘘が真実に対する存在論的な優位性を持っており、嘘を通過することなしに真実へと到達することはできない。マガウアンは、真実を覆い隠しているフィクションの構造を分析しながら、ノーラン作品に通底する虚偽性の構造を明晰に浮かび上がらせる。そして、本書の副題に示されているように、それをヘーゲルやラカン、カントやハイデガー、ジジェクやバディウらの思想と突き合わせて、仔細に読み解いていく。この読解作業を通してマガウアンが、ノーランのつく嘘のなかに、そしてフィクションの力のなかに見出すのは、観客を世界から解放し自由にする映画の倫理的な可能性だ。
ノーランに関する研究書は世界的に見てもまだ少なく、これから様々な分析や批評が国内外で繰り広げられていくにちがいない。デヴィッド・ボードウェルとクリスティン・トンプソンがホームページの「Observations on film art」で精力的に展開しているノーラン作品の分析などとともに、その今後の展開にとって本書が日本の映画研究の参照軸の一つとして資することになれば、出版に携わった者の一人として嬉しく思う。また、映画研究者・映画評論家だけでなく、映画愛好家、ノーラン・ファンにも、ぜひ手に取っていただきたい。ノーラン作品を、思いがけない新鮮な視点から見直す契機となる、読み応えのある一冊となるだろう。
(中路武士)
※ 2017年11月現在、出版元のフィルムアート社のホームページ、および同社が運営するウェブマガジン「かみのたね」で、本書のイントロダクションが無料公開中である。