単著

増田展大

科学者の網膜 身体をめぐる映像技術論:1880−1910(視覚文化叢書)

青弓社
2017年3月

「写真(photo-graph)」、「蓄音機(phono-graph)」、「電信(tele-graph)」、「映画(cinémato-graph)」の接尾辞である「グラフ(graph)」とは、「書く(graphia)」に由来し、それぞれ光、音、遠隔、動きを躍動そのままに書き(写し)取ることを意味していた。本書の第四章が扱う「アルフレッド・ビネのグラフ法」にも表れているように、本書は、映画という20世紀的なメディウムが登場する以前の、五人の科学者による身体の書き取り=「グラフ」化を主題とし、「科学者の網膜」に展開される技術と人間の知覚感覚との相互的な揺らぎを繊細にすくいとろうとする試みといえるかもしれない。

第一章では身体鍛錬術の先駆者エドモン・デボネの写真技術が語られ、第二章では、体育教育のモデルとなる「ジムナスティーク」を考案したジョルジュ•ドゥメニーのフォノスコープの実践が紹介される。第三章では写真技師アルベール・ロンドによる医学的連続写真、第四章では先導的な実験心理学者アルフレッド・ビネが用いたグラフ法がそれぞれ検討されたうえで、第五章では、デッサンと写真技術といった複数の複製技術を応用する美術解剖学者ポール・リシェによる身体の型どり技術が主題となる。

五人の科学者が、被験者の身体の正確な記述を模索するとき、それは身体を表層的な対象へと転換し、その内部に生起している不明瞭な心理を可視化して把握する「見る」=「知る」欲望に動機づけられていると筆者は論じている。筆者はそのうえで、近年のデジタル・メディウムによる身体の書き取り技術をも視野に入れた該博な知識を駆使しながら、19世紀末期に興隆した精神医学を背景に、精神や内面の異常や変調を解剖学的所見のみならず、身体の表徴から解読する、奇特な科学者たちの今まで顧みられることの少なかった多彩な「グラフ」化の実践を紹介していくのである。

例えば、本書が第一章で扱っているジャン=マルタン・シャルコーの試みとは、精神異常の証拠を書き取る目的で、連続写真を用いるものであった。しかし、写真機の前に置かれた人体はヒステリーという病の身振りを再現的に表出するパフォーマンスともとれ、「演劇的」な作為性を免れえない。そこで、医師と患者間に、あるいは撮影技術と身体の間に混入する誤謬を極力排除するべく、メディウムとしての操作者の存在を極限まで透明化する撮影術が考案されていくことになる。

本書はまた、新規な装置によって書き取られた身体が、「表層的なポーズ」としてスペクタクル化し、大衆社会に流通していく事態にも言及している。身体表象が医学的な用途のみならず、実体を失ったイリュージョンとして平板化され、大衆によってセンセーショナルに受容されるのは、演者の身体や映像技術それ自体が見世物としてアトラクション化される初期映画期の映像文化環境に顕著な現象でもあった。

技術以前に存在する身体を単純に映像技術が書き出すのではなく、映像技術がスペクタクル化された身体の身振りを逆に作り出していくさまを、筆者は丁寧にえがきだしていく。例を挙げるなら、ジョルジュ・ドゥメニーのフォノスコープによる聾唖者教育を目的とした発話運動の書き取りや、アスリートの運動の記録は、理想的な身体の形象への読解可能性と同時に、その模倣可能性を切り拓いてもいる。更に興味深いのは、ドゥメニーがこの書き取り装置の商業化を試みていることであり、視覚情報と音声情報の同期を試みる実践は、筆者が指摘するとおり、後のトーキー映画やモーションキャプチャの先駆的な技術形態ともいえる。

第三章で筆者が検討しているアルベール・ロンドのフォトクロノグラフィも、連続写真機を用い、被写体の運動を、瞬間的な可視性を調整することによって出来る限り正確に測定しようという実践である。筆者は、ロンドの写真術とマイブリッジのそれとを比較しながら、マイブリッジの連続写真が、映画的ナラティブの萌芽としてのシークエンス性に向けられているとするなら、ロンドのそれは被写体の運動を微分化して最小単位にまで解体し、身体の任意の瞬間の「自動的」あるいは「機械的」な写しを可能にする「グラフ」法だと論じている。そして、第四章で扱われるアルフレッド•ビネの「グラフ」法において、筆者は実験心理学の「記銘法」を取り上げ、被験者に駆動している潜在意識を、身体運動の痕跡として「転写」し可視化を試みるビネの装置を仔細に議論している。本書に拠るならば、ビネは被験者の「心臓」の鼓動を「グラフ」曲線に写し取り、その強度を視覚化することによって「感情の類型化」を検討したという。これは、生命の動性を数値化し、通常人間には知覚不可能な要素を析出する試行ともいえよう。

第五章では、写真、デッサン、型どりといった複製技術が交錯する地点での身体の書き取りの可能性が検討された。芸術と科学との境界で科学的な客観性を保証するはずの写真技術が、逆にデッサンによって補完されるといった事態に表れているように、写真のメディウムとしての多義性や曖昧さが、芸術的な手作業と折り重なることで浮上するだろう。筆者は、複数のメディウムを相互補完的に用いる実践から、世紀転換期の科学者が憑かれていた、イメージと対象との絶対的類似性への強迫的な希求を明らかにしていくのだ。

以上のように、本書はイメージと対象との数量化不可能な空隙を極限まで除去し、科学的な客観性を担保しようとする者たちのそれぞれの身体記述のスタイルを細密に点検してみせている。五人の科学者が採用した「グラフ」法は、被験者の身体運動の微分・離散化を通して、心理の最小単位を決定し、運動の正確な記述と再現を目ざしているものの、書き取りのプロセスにおいて、機械装置、被験者、そして操作者の身体という変数の「非決定性」が生じてしまうことは否めない。不透明なメディウムの相関的な影響を極力排除する技術開発は、マレーの言うような単一の「現象そのものの言語」へ展望を開くというよりは、新旧の書き取り技術の複合化を招いたともいえる。その意味で、世紀転換期のフランスにおける科学者の多岐に渡る「グラフ」法の実践は、現代の複雑に交錯するメディア環境への理解に多大な示唆を与えるものとなるだろう。

(難波阿丹)

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行