沈黙の詩法 メルロ=ポンティと表現の哲学
いかなる表現手段であれ私たちがなにかを「表現する」と言うとき、それはなにを意味しているのだろうか。私たちの内部にあるイメージや観念を外に表出することを言うのだろうか。あるいは、表現と呼ばれる経験のなかには、表現されるものが言語や絵画を触媒として、新たなアスペクトを呈示していくような契機があると考えることはできないだろうか。この種の問いは、何人もの作家・批評家・哲学者によって問われてきたし、ある意味では古典的なものではあるが、そうであるがゆえに、一義的な解答を与えることのできない難問としていまなお私たちの前に聳えたっている。本書のなかで著者が、メルロ=ポンティ哲学における「表現と沈黙」という主題をとおして思考しようとするものも、このような問題と分かちがたく結びついている。
本書は、『自然の現象学』(晃洋書房、2002年)に続くメルロ=ポンティ論の第二作目にあたる。そこには著者がここ10年間に発表してきた論文11篇が収められており、本書はそれらを集成した論文集である。それらは著者がそれまで取り組んできた二つのテーマの成果として位置づけられている。一つはメルロ=ポンティの芸術論における表現の問題である。メルロ=ポンティにおける表現と沈黙のモチーフを『知覚の現象学』から晩年の『眼と精神』まで跡づけていった第一章、クロード・シモンの『風』における「世界の肉」という表現をメルロ=ポンティがどのように自らの思想へと鋳直したかを問う第二章、1945年の講演「映画と新しい心理学」から出発してメルロ=ポンティ独自のイマージュ論を再構成しようとした第三章、表象を可能にする「脱表象化のモメント」としての身体という観点からメルロ=ポンティにおける視覚の問題を論じた第六章、がこれにあたる。
もう一つのテーマは、フッサールの超越論的現象学をメルロ=ポンティ哲学の自然哲学的側面から裏打ちしようという試みである。本能の段階から理性的存在へと進む発展のプロセスであるフッサールの「普遍的目的論」と、精神分析における欲動の概念に依拠しつつ独自の存在論を打ち立てるメルロ=ポンティの「肉の哲学」とを交叉させようとした第八章、行動、発達ないし本能といった主題について論じる後期メルロ=ポンティの思考と晩年のフッサールに見られる生物学的な主題を関連づけることによって、「深層の現象学」の射程を描きだそうとした第九章、ヴァイツゼカーに依拠しながら「あいだ」の哲学を展開した木村敏の思想とメルロ=ポンティにおける間身体性の思想とを対話させようとした第十章、などがそれにあたるだろう。あるいは、『触覚』においてメルロ=ポンティのなかに直接的合致の契機をしか見ようとしなかったデリダに対して、「差異化」「裂開」「偏差」を語るメルロ=ポンティに着目することで、両者の近さと遠さを測ろうとした第七章もこのテーマに属するものだと言えるかもしれない。
もちろん本書のなかには、どちらか一方に分類はできないが、それらを架橋し、上述の二つのテーマとは異なる文脈で展開している試みも存在する。たとえば、クレーの絵画のなかに存在の退隠の契機をみてとったハイデガーとメルロ=ポンティを対比した第四章、晩年のメルロ=ポンティの芸術論におけるハイデガーの「現象しないもの」の問題系の影響を論じた第五章、そしてブランショのマラルメ解釈にいち早く反応し、それを批判的に検討しつつ、必然と偶然が交互に相即する「無限の表裏転換」の思想へと向かった田辺元を論じた第十一章は、そのような試みの一環として理解することができるように思われる。
おそらく本書は、あまりに広大で多種多彩な著者の視点が散りばめられているがゆえに、難解という印象を与えてしまうのかもしれない。だが本書を読み進めるにしたがって読者は、ある経験を浮き彫りにしようとする著者のパトスが木霊のように響き渡ってくることをはっきりと感じ取るはずである。前‐表現的な身体の次元が表現にもたらされることによって、あるいは見えないものが見えるものと相互に折り合うことによって、新しい生を歩み始め、ある全体を形成してゆく、そのようなものの経験──メルロ=ポンティに寄り添うだけでなく、様々な作家・思想家と対話を重ねながらそれを記述しようとした本書は、「表現」と呼ばれるものをめぐる歴史の奥行を感じさせてくれる良き導入となるにちがいない。
(松田智裕)