越境する小説文体 意識の流れ、魔術的リアリズム、ブラックユーモア
本書は、文体論や比較詩学を専門とする橋本陽介が、20世紀の文学においてどのように「小説文体が国境と言語を越えて世界的なつながりを示したのか」(11頁)を考察するものである。前著『物語における時間と話法の比較詩学──日本語と中国語からのナラトロジー』(水声社、2014年)では言語学的な視点から物語における時間について考察したが、本書では資料面からの影響関係も視野に入れる。小説文体が、「もともとの文体と、受容者側の相互作用によって改変され、別のものへと作りかえられる」(12頁)過程を、「言語の壁」(12頁)、「作家の誤読と改変」、「模倣文体の模倣と伝播」(13頁)に注目して考察する。したがって、現代中国文学を中心に考察するが、「具体的なテクストをどう解釈するのか」という「日本文学の領域で支配的」な手法でも、「テクストの社会的・政治的な文脈を明らかにする」「中国文学の領域で支配的」(17頁)な手法でもなく、「作者が言葉を用いてテクストを生み出す過程で何が起こっているのか」を考察する一種の「作者論の理論的アプローチ」(18頁)が提示される。
具体的には、「意識の流れ」文体、「魔術的リアリズム」、「ブラックユーモア」について考察する。「意識の流れ」文体に関しては、1920年代から40年代にかけてと、1978年以降の新しい時代に分けて考察する。1920年代から40年代については、伊藤整や川端康成のジョイス受容やフロイト理論の受容について考察し、日本文学における受容、そしてその中国における受容について考察する。1978年以降の新しい「意識の流れ」文体については、20年代から40年代にかけてのものと全く分断されていること、その中で高行健は「中国語の特色を生かした」、「「言葉の流れ」と呼ぶ新たな文体を創造した」(153頁)ことを明らかにする。
「魔術的リアリズム」については、もともと現実を幻想化するようなものではなく、あくまでも現実を描くのだが、「ラテンアメリカでは現実そのものが驚異的」(163頁)であることをまず確認する。その上で、中国文学における「魔術的リアリズム」が現実を幻想化するものという誤読の上に発展したものであることを明らかにする。
「ブラックユーモア」は、「「不条理」の度合いを高めることによって、笑いに昇華させ」たもの(248頁)で、主に1960年代のアメリカの一群の小説を指す。当初「現実の不条理」(324頁)を描くものとして受容されたが、80年代後半から90年代にかけては、「その特徴を文体に取り入れた比較的優れた作品も生み出すことになった」(325頁)。
本書を通して、新しい文体が誤読され、模倣され、改変されながら「国境や言語を越えて」(339頁)広がる過程が詳らかにされる。20世紀における世界的な文学の影響関係を論じた書物は多いが、本書は「言語自体」(339頁)に注目し文体を分析した稀有な成果だろう。余談であるが一点、気になったことがある。1920年代から1940年にかけての「意識の流れ」文体については、日本文学における受容についても考察していたが、「魔術的リアリズム」「ブラックユーモア」に関しては中国文学のみの考察となっている。日本文学における受容が中国文学に影響を与えなかったということだろうか、それとも、近年の日本文学において、異なる言語によって書かれた文学との格闘は、「対岸の火事」(宮本輝「選評」『文芸春秋』2017年9月、383頁。温又柔「真ん中の子どもたち」についての評)のようなものだからだろうか。
(西原志保)