破壊しに、と彼女たちは言う 柔らかに境界を横断する女性アーティストたち
本書は、田中敦子、草間彌生、妹島和世、ピピロッティ・リストやマルレーネ・デュマスら女性アーティストやクリエイターについて、著者が1989年から発表してきた評論12本をまとめた評論集である。取り上げられるほとんどのアーティストは著者がキュレイターとして関わってきた人々であり、それゆえ各論考は短いものでありながら、それぞれの作家のモノグラフとしても十分に濃密な情報量でまとめられている。
25年間の評論を通読すると、著者が各作家との関わりにおいて見出していく女性アーティストたちの立場が、既に1989年初出の論考「父なるモダニズムを超えて──1980年代の女性アーティストたちⅠ 優雅なラディカリズム」で明確に表されていることに驚く。女性アーティストたちは「既存の価値を“破壊”するのではなく」、「“西洋”“男性”によって記述される“大文字の歴史”に対する“オルタナティヴな歴史”の記述への願望」でもなく、「何も押し付けない」こと、「記述しない」こと、「脱歴史的でありつづけることを、基本的なポジションとしている」という。
このような「彼女たち」の立場はどのようにして可能になるかを、本書は作品に寄り添い仔細に追っていく。例えば、建築家・妹島和世は、建築空間について、内的な身体に関する緻密な考察というよりは、実践的な身体シュミレーションの積み重ねから導き出される考察に基づいた、軽やかな建築を提案する。それはときに、「朝起きて皆が一同に同じ場所(トイレ)に向かって歩いて行くのが不自然でいや」だという、ごく私的な感覚から出発することもある。こうして《再春館製薬女子寮》(1990-91)ではトイレは建築物の奥ではなく、中央部分に配され、予期せぬ人の動きと出会いが生まれる。イデオロギーに対するアンチから出発する立場は往々にして固定化の危険性を孕むが、空間に対する身体的リアリティから生まれたプログラムをダイレクトに形にした妹島の建築では、建築内部の各人によってこのプログラムが変奏され、持続的な自由と、強靭なラディカルさを獲得するのである。
自らの生と地続きであるからこそ、その作品に責任をもつという非常にシンプルな態度。そこには分析を挫折させるような複雑な思考より、女性アーティストたちの鋭敏な感覚と、多様な生、すなわち作品の受け手への信頼があることが、各論考から導出されている。こうした態度は最後に本書で言及された人々の次世代ともいえる女性アーティストたち、クラウド化した世界でよりパフォーマティヴな活動を繰り広げるスプツニ子!やChim↑Pomのエリィらにも共通するだろう。勿論、本書に収められたテクストは「女性アーティスト」を一概に括ることができるようなものではない。しかし本書が、1980年代から2010年代のクリエイションにおいて強烈に作用した「彼女たち」の魅惑的な「破壊のメソッド」の数々を確認し、2020年代を迎えつつある次世代の「彼女たち」の戦略を検討するために有効な見取り図であることは間違いない。
(松岡佳世)