単著

千葉雅也

勉強の哲学 来たるべきバカのために

文藝春秋
2017年4月

本書は、文庫化もされた『動きすぎてはいけない』の著者として知られる千葉雅也が「勉強が気になっているすべての人に向けて」書き下ろした「哲学書」である。千葉は、フランスの哲学者ドゥルーズの「動きすぎてはいけない」という警句と、「勉強とは自己破壊である」という洞察を結びつけることによって、勉強の原理論を仕立てあげた。その原理は、次のように要約できるだろう。

私たちは、ふだんそれとは意識することなく、学校や職場の雰囲気=ノリに合わせた言葉づかいをしている。勉強とは、そうしたノリから自由になって、異なるノリのなかで言葉を使うようになることである。そして、別のノリにうつるためには、いまの環境のノリを疑って批判し(アイロニー)、そこから言葉づかいをズラしていく(ユーモア)必要がある。

ただ、どちらも「やりすぎてはいけない」。なにもかもを疑ってしまえば、自分の疑いの言葉がなにを意味しているのかもわからなくなるし、どこまでもズレた言葉づかいは、自分がそれによってなにを意味したいのかがわからなくなる。言葉そのものを放棄することはできない。

だから、アイロニーもユーモアもどこかで歯止めをかけなければならない(有限化)。その最終的な歯止めとなるのが、千葉が「享楽的こだわり」と呼ぶものだ。これは、自分の言葉づかいをあれこれといじり倒しているうちに見出されてくる手癖のようなものである。しかし千葉は、これが「自分の個性」だなどと言うわけではない。そこにもまだアイロニーをきかせる余地がある。こうした作業を繰り返すことによって、どこか行き詰まってしまった自分を新たな自分へと生成変化させていくこと。これが、哲学的に考察された自己破壊としての勉強である。

このような勉強の原理的考察のあとには、千葉自身が奨める「有限化」の具体的な方法がいくつか挙げられている。入門書や教師、ノートアプリの活用の仕方の一例が、「有限化」の実践としてそこで紹介されている。

すでに数字が証明しているように、人口に膾炙するメタ勉強論を花開かせた本書は、韜晦と謗られることの多かった現代思想研究のひとつの素晴らしき成果だろう。しかし、それはどのようにして可能となっているのだろうか?

「有限化」「言語の他者性」「アイロニー」。本書は、このようないかにも哲学の本に出てきそうな言い回しをひんぱんに用いながらも、多様な読者に開かれた平明さに到達している(上述の要約がその平明さに到達していないのは、ひとえに筆者の能力不足に因るものである)。『動きすぎてはいけない』のときよりも一文の長さが切り詰められ、常体は敬体に切り替えられている。しかし、本書の文体上の工夫は、そのような形式的な変更にとどまらない効果を産んだ。千葉は、自らの哲学的なボキャブラリーを切り捨てることなく、むしろそれによって文章に緩急をつけてさえいるのだ。

そのことは、この『勉強の哲学』を『動きすぎてはいけない』第五章「個体化の要請――『差異と反復』における文理の問題」と比較してみればなお明らかだろう。この章では、「イロニーからユーモアへの折り返し」といった、『勉強の哲学』の中核をなすアイデアが哲学的な論文のかたちで提示されている。『動きすぎてはいけない』においては、千葉自身がドゥルーズの身振りを模して書いていることもあるが、一文あたりが比較的短いものの、韜晦さは否めない(それが悪いと言いたいわけではない)。だが、『勉強の哲学』は、その中核的な議論の構造をほとんど同じくし、ボキャブラリーもかなり共有しているにもかかわらず、とにかく読みやすく、ほとんど別モノになっている。この事実は、『勉強の哲学』という本それ自体が千葉にとって『勉強の哲学』の実践であることを示している。

「自己破壊」を繰り返しながらも「やりすぎてはいけない」。自らの手癖を残しつつも、新たな自分に生成変化していく。本書はそこで展開される「勉強」を見事に実践してみせた点で、ドゥルーズのノリに同調するところから始まった「生成変化の哲学」のひとつの集大成と言えるだろう。

(田村正資)

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行