小特集:現場から学会に期待すること

インタビュー(3) アートの現場から 小田原のどか(彫刻家)

聞き手:利根川由奈、池野絢子

── 今回は表象文化論学会『REPRE』の特集で、現場で活躍されている方に「学会に期待すること」を伺うという趣旨でインタビューをお願いしました。小田原さんは彫刻家として活動される一方、『彫刻の問題』という書籍を出版され、執筆活動にも力を入れられています。また、作品制作にあたり、現場のリサーチを丹念に行われています。小田原さんは調査や研究活動の場をご自身の制作にどのように活用していきたいとお考えでしょうか。まずは、そうした小田原さんのご活動の背景について伺えますか。

小田原 話は遡りますが、かつて私が在籍していた多摩美術大学彫刻学科では、本を読んだり勉強したりすることが推奨されない雰囲気がありました。これはとても問題だと思っていて、ある意味では反知性主義だと思うのです。私が直接教わっていた先生はそういうタイプではなく、自分の研究室にライブラリスペースをつくって、学生に本を貸してどんどん勉強しなさいという方でしたが、木の先生、金属の先生、石の先生といろいろな先生がいる中で、それぞれの先生が作家として強い思想を持っています。それが教育に対してもあるわけですが、ある先生たちの中にはそうした反知性主義といっても過言ではない傾向があった。ひたすら手を動かしてつくりなさい、素材との対話の中で見えてくるものがある、という指導をする先生がいて、もちろんそれもひとつの真実だと思いますが、考えることや学びたいという思いを否定するような教育に疑問を感じ、大学院は外に出ることにしました。その頃から、美術は知識の継承の営みだと考えていましたが、作品に込められた作家の知識や経験は本を読むようには読み解けないわけです。本や論文であれば、その検証や継承が可能です。だからこそ書くことに憧れがあり、美術とは別の知識の継承の在り方として興味を持ちました。本を読むな、と言われたことの反動もあったのかもしれません。

その後、東京藝術大学で小谷元彦さんという現代美術の彫刻家の研究室で学びます。近代の彫刻について批判的に考え、制作を続ける一線の作家だったので、学ぶことは多かったです。その後も大学に残りたいと考えた時に、論文を書きたいと考えました。作品をつくる中で、どうしてここがこういう風になっているのか分からないというブラックボックスのようなものがあります。自分の作品のわからない部分をギリギリまで言語化してみたいという欲望が出てきました。藝大を修了し、筑波大学に入って佐藤嘉幸先生に紹介していただき、表象文化論学会に入りました。

筑波大学ではつくることはやめてくれと言われました。現代美術の領域でドクターを取る学生が過去にいなかったので、審査の基準がなかったからです。彫刻や洋画の学生だと、日展などの公募展で賞を取ることによって論文が一本免除されるということがあったのですが、私の場合は国際展に招聘されることというあまり現実的ではないものだったので、査読のある論文を2本書いて、そこから博士論文の審査に入ることになりました。そこで、初めて筑波大学の紀要に投稿したのですが、返ってきた査読で感動することになります。自分がやってきたことがこんな風に検証されるのかと。紀要への投稿を経て初めて筑波大学に入学したという気持ちになりました(笑)。それまで学術論文を書いたことがなかったので、時間がかかってしまいドクターには5年間在籍しました。博士論文として書いたのは中西夏之を扱った絵画論でした。彫刻について考え続けていたのですが、彫刻とはなにかという問いに「絵ではないもの」という考え方ができるのではないかという思いがあり、絵とはなにかということを遠回りですが研究しました。博論の基になった論文のひとつを2013年に美学会の若手研究者フォーラムで発表しました。学会での研究発表は、検証されたい、鉄を叩いて形成するように打たれたいという願望からやっています。つくっている人だったらだれでも自分に負荷をかけたいという思いがあると思いますが、私の場合はそういった方向で自分に負荷をかけていくことになりました。日本記号学会に入ったのも筑波大にいた頃でした。

学会との接点、期待すること

── 先ほどのお話しですと、小田原さんの場合、制作するだけではなく知識を得たいという気持ちがあったのではないかと思いますが、今の若い作家さんの間にそうした意識は共有されているのでしょうか。

小田原 あると思いますが、リサーチ系と呼ばれる作家がクロースアップされている一方で、「夏休みの自由研究だ」といった批判があります。なぜかというと、リサーチする手法や質がいろいろだからです。最終的に作品になる際には、調査によって明らかになったことは作家の作品の背景になっていて、ほとんどの場合リサーチ自体は世に出ない。私は、作家が調査した内容が検証されるためにも、公にされていいのではないかと考えます。内容によっては、調査のデータを使いたい人も出てくるはずです。私にとっては「使える」ということが重要です。後ほどお話ししますが、原爆碑のことも、まとめて世に出せば誰かが使えると思うと、バトンを渡したような気持ちになる。そこで批判されたり、不備が指摘されることを含めて、更新が想像できることが豊かさだと思います。

── 学会について話がでてきましたので、小田原さんの活動と学会の関係についても少しお話を伺いたいと思います。入会されている学会は表象文化論学会と日本記号学会と美学会とのことですが、カラーの違いなどは感じられますか?

小田原 私はそんなにコミットできていないですが、いちばん違うのは学会誌など外に出る部分かと思います。私は大学院の修士課程の時に表象文化論学会のことは書店で『表象』を見かけることを通じて認識していて、学会誌が一般誌として書店で大きく扱われていることに驚き、凄いことだと思いました。

── 表象文化論学会は、毎回大会のときにアーティストさんを招いて、パフォーマンスをしてもらったりしていますが、研究発表は研究者が中心です。他にこの学会だからこそ可能なこともあるのではないかと思うのですが、そのあたりはどうお考えですか。

小田原 あまり開かれすぎるのも良くないのではないかという気持ちがあります。やはり学会というものの意義は精査されたものが出て来る機能の場だと思うので。美術の文脈でも「サロン」の重要性があります。それもある程度の閉鎖性やメンバーシップ制があり、今から見れば良く機能していた。論文を書いたり調査をしたりということがある程度自分に負荷をかけるということを兼ねているので、学会のある程度の閉鎖性が参加する人への負荷として作用することはいいことなのではないかと思います。緊張感は重要です。本屋で『表象』を手に取った若い学生の中には、「いつか自分もここに書いてみたい」と憧れを抱く人がいるのではないでしょうか。そういった意味でも学会誌が果たしている役割は大きいと思います。私の場合は、学会に入るのに紹介者が必要だったということがあり、佐藤先生にコンタクトを取るきっかけになりました。ハードルでしたが、そういうことも自分にとってはうまく機能したと思っています。

── これから表象文化論学会に期待することはありますか。

小田原 一旦考えていいですか(笑)。私は意見するような立場にないので、すごくおこがましさを感じてしまいます。学会に付随して展示があることがいいのかは正直に言ってよく分かりません。ともすれば、学会による権威付けにもなってしまいますし、難しいところだと思います。2011年の研究発表集会で写真家の畠山直哉さんが登壇された「厄災の記録と表象」のパネルをよく覚えています。畠山さんは自分が表象文化論学会で話すということについてとても自覚的で終始緊張感があり、作家の学会での振る舞いについて考えさせられました。

── 小田原さんご自身の活動についてもお話を伺いたいと思います。小田原さんは制作や調査研究だけでなく、本の出版などもされていらっしゃいますが、作品制作以外の面での学会との接点などはありますか。

小田原 私は、作家の中ではちょっとめずらしいタイプかもしれないです。というのは、アトリエにこもってつくるタイプではない。自分の手でつくらず、発注して作品をつくることを彫刻の文脈でやる、ということをある時期からコンセプトとしています。本を出版したりだとか、調査をして論文を書いたり、学会で発表したりということも、制作と同じ熱量でやっているので、つくることと調査をすることが、自分の中では同じ扱いです。制作に付随する調査、ということではない。周りの同世代の作家を見ていても、似たようなタイプの作家があまりいないように思います。つくることと調べることと、本を編むことの3本くらいの軸があってやっているのが私のスタンスです。

『彫刻の問題』について

── 小田原さんの『彫刻の問題』(トポフィル、2017)を拝読しましたが、この著作は、信州大学の金井直さんの企画による同名の展覧会から構想されたものですよね。金井さん、それに参加作家の白川昌生さん、そして小田原さんのお三方がそれぞれ現代の彫刻/モニュメントをめぐる問題について論じた、刺激的な著作であると感じました。小田原さんの文章に関して、ご自身の作品と、論文、調査、出版といった活動が小田原さんの中でどのように関わっているのか、あるいはいないのかという点が気になりました。この三者には序列があるのでしょうか。それとも別個のものとして重なり合っているのでしょうか。

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白川昌生、金井直、小田原のどか『彫刻の問題』トポフィル、2017年。

小田原 序列というのはなくて、重なり合っています。例えば、2014年から、長崎で被爆者の方々に聞き取りをして、長崎の人たちと共に2016年に記録集をつくりましたが、自分がまさかそういうことをするとは夢にも思っていませんでした。調査や、作品をつくる上での必要にかられて、作品に背中を押されるように、長崎にぶつかり、被爆証言集の制作に携わったり、調査を学会誌に発表したりということになってしまったというかたちです。以前、ある方に「研究者になりたいのか、作家になりたいのか、どっちなのですか」と聞かれたことがありました。しかし、自分の中ではその質問はピンとこなかった。なにかになりたくてやっているわけではなくて、自分ではコントロールできない必要にかられてやっていて、そのアウトプットが作品や論文になっています。なので、そういう風に質問をしたい人がいるということに驚きました。「いろいろとやっている」とも言われますが、私自身は手広くやっているという意識も持ってはいなくて、その時々の切実さが作品や本になっている。つくらざるを得ない、本にせざるを得ない、誰も言わないので世に問わないといけない。そういう気持ち、必然性が生じてかたちになっています。

── 小田原さんが『彫刻の問題』の中でご自身の作品だけでなく、作品のモチーフにされている矢羽形の標柱にも触れないという点について、なぜなのかと疑問に思いました。

小田原 私は今まで、自分の作品や制作について書いたことがほとんどありません。博士論文を筑波大学に提出しましたが、制作者という立場で書いたものではないので、自分の制作について書く術をまだ持っていないんです。だから『彫刻の問題』では、自分の作品については自分では語れなかった。

標柱については、日本記号学会から調査の助成を受けて、長崎の原爆中心地碑の調査に数回行きました。その調査の結果をまとめたものが今年の記号学会の学会誌に掲載されるので、そちらで大分、矢羽の標柱については書きました。それも、作品化するということは書かずに、どういう背景で矢印が長崎に建てられたのかということだけをまとめたものなのですが。標柱についてはそちらにすべて書いたなという思いがあるので、『彫刻の問題』ではあえて矢羽のことには触れませんでした。矢羽標柱が作品化されることについては、金井直さんが書いてくださると思っていましたし、白川昌生さんとも打ち合わせをしたわけではないですが、白川さんもご自身の作品については書かれなかったので、三者三様の問題提起ができたのではないかと思います。

*小田原のどか「長崎・爆心地の矢印──矢形標柱はなにを示したか」日本記号学会編『セミオトポス12』所収予定。

── 自分の作品について書かないのは、意図的にやってらっしゃるのかなと思ったのですが、他の場所で消化した部分があったのですね。それは、意識的な客観性を担保したいから自分では書かない、という線引きをしているということでは無いのでしょうか?

小田原 それほど意識してはいませんでしたが、今また別のところでこの矢羽を作品化するということについて書くことをしているということもあり、どこでなにを書くかということをそれぞれ区分けしているという感じです。

── 彫刻の研究を巡る状況については、どのようにお考えでしょうか。

小田原 日本の彫刻についての通史的な研究が少ないことが以前から不思議でした。仏教彫刻は別ですが、絵画に比べて近代彫刻の研究は多いとは言えない状況です。もちろん研究している方はいますが、総論的なものを出したいと思い、『彫刻の問題』を企画しました。

そもそも、なぜ、近代彫刻史が戦後の日本で書かれなくなっているかというと、銅像がほとんど失われているからです。戦時中は物資の不足による金属回収で失われ、戦後はGHQによる軍国主義の排除の要請からも失われている。本にも書きましたが、公共空間の女性裸体像の第一号がどこでどういう文脈から出てきたのかもこれまでほとんど光があたることがなく、注目されること自体がなかった。戦後の彫刻史にとって重要な出来事を問題提起するには、モノがないので、書くしかない。銅像に限らず、廃仏毀釈などによっても彫刻は失われてきた過去があるので、やはり書くことで検証するしかない部分があります。そうしないと、存在しなかったことになってしまう。私が学部の頃に受けた「本を読むな」、「勉強するな」という教育は、参照されるべきことが問題として提起されなかったということ、意識化されなかったことから来ていると思います。もしかしたら、この国の彫刻と戦争とのかかわりなど後ろめたいことがあるから、歴史や知識にアクセスするなということが出てきているのかもしれませんが。様々な意味で彫刻の教育は閉鎖的です。美大芸大の教員は作家でもあるので、アカデミシャンとしての自覚がほとんどない教員もいます。教育者ではなく作家として教育の現場に立つことをポリシーとする方もいるようですが、大学は高等教育の場ですから、必然的に問題が起きてしまう。

── 小田原さんが美術をやろうと思った時に、最初に彫刻を選ばれたのはなぜでしょうか。また、いつから美術教育を受けておられるのでしょうか。

小田原 私は宮城県の仙台市出身です。仙台は「彫刻のあるまちづくり」という定禅寺通りのケヤキ並木など公共の場に彫刻を置く事業を進めていました。「仙台方式」と呼ばれているのですが、作家に設置場所を見てもらって、人の流れや景観などを考慮しながら1年に1体ずつ彫刻を置くという方法です。私が最初に触れた美術は、そういう公共空間にある彫刻でした。美術館などのクローズドな場で絵や彫刻を観る前に、人の往来の中に存在する彫刻作品を観る体験がありました。その中で、なぜ人のかたちに似せたものをつくって、人間の中に置くのだろうという不思議さを感じました。四季によって移り変わっていくケヤキ並木の様子と、そこにとどまっている彫刻の対比、常に流れていくものと常に留まっているものという構図に興味を惹かれて、美術科のある高校に進学して、彫刻の勉強を始めました。去年、山田亮太さんという詩人の詩集『オバマ・グーグル』の装丁をしたのですが、17歳の時につくった石膏像の写真を使いました。

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山田亮太『オバマ・グーグル』思潮社、2016年。第50回小熊秀雄賞受賞。

当時は、愚直に粘土を捏ねくり回して、先生には「1日でもさぼったら、取り戻すのに3日かかる」と言われて、土日も時間の許す限りひたすら制作していました。制作を続ける中で、どうして人は彫刻を必要としてきたのだろうということが不思議になり、そういうことを美術大学で深く考えたいと思いました。高校時代は塑造という水粘土をつかってモデリングする彫刻の技法を学んでいたのですが、モデリングは最終的に石膏に移したり、ブロンズに移したりして、原型である水粘土でつくったものは失われてしまいます。型を反転させる素材はいろいろと選ぶことができますが、大学では和紙や布といったソフト・スカルプチュア―柔らかい素材―の技法を学びたいと思うようになりました。

そうして美大受験を視野に入れて、美術大学の受験のための「受験デッサン」を学ぶようになりました。仙台には大きな美術予備校がなかったので、同級生の多くが夏休みのような長期休暇になると東京に行って、一人暮らしや親戚の家に身を寄せて大手の美術予備校に通っていました。私も、高校2年生から長期休暇は実家を離れて、都内の大手美術予備校に通いました。そこで、受験デッサンというものに出会った時に、実制作とかけ離れた技術を強要されることに疑問を抱かずにいることは、とてもじゃないけど私にはできないと思ってしまいました。受験で必要とされる技巧的な石膏デッサンに馴染めないと感じて、結局、塑造の技術はすでにもっていたので、美術大学の彫刻学科は受験せず、デザイン学科の中の繊維や布を扱うテキスタイル専攻を受験して自分の制作をしようと考えました。ところが、私が入った美大は、伝統的な工芸としての染織を教えることに力を入れていました。ですからソフト・スカルプチュアなんて、全く教えてもらえない。そこで多摩美術大学の彫刻学科に編入しました。そのようにして、彫刻的な教育や彫刻というものに出会い直します。外から入ってきた人間だったこともあり、余計に不思議さが自分の中で意識されたのだと思いますが、彫刻が人の手による作業の快楽の集積のように見えてしまったんです。いかに手の快楽や運動の痕跡をかたちに移すかという風に見えてしまい、高校時代の自身の制作も否定するようなかたちで、いかに自分の手の快楽から離れていくかを考えるようになりました。それは、手技を至上とする一部の教員や学生への抵抗の側面もありましたが、この国において彫刻をどう考えればいいのかという問いから生じた反抗だったのだと思います。

── 「手の快楽から離れる」というのは、ご自身の手で作品をつくらず、発注するというスタイルにもつながっているのでしょうか?

小田原 そうですね。つながっています。私が「手の快楽」をどこから感じるのかと考えると、北村西望(1884-1987)や、戦争に関わる彫刻をつくっていた彫刻家達から強く感じます。彼らは快楽に従順であったからこそ、ファシズムや戦意高揚に結びつくような作品すらもつくれたのでしょう。それは、彫刻家が持っている「つくり続けたい」という思いがそうさせているのだと思います。自分がつくったものがどういう思想に結びつくのか、どういう思想を喚起させるか、どのような思想の教化につながるのか、よりも「かたちをつくり出したい」気持ちが作家自身の中で重視されてしまう。言い方が難しいですが、戦後の彫刻家たちはそのような戦中の彫刻家の在り方に対して反省・検証したのか、と疑問に思うところがあります。素朴な「つくり続けたい」気持ちはもちろん尊重されるべきものですが、時勢によっては非常に暴力的なものになる危ういものだと思います。特に彫刻は他の芸術とは少し違う面があります。先ほどお話したように、塑造であれば水粘土をどういう素材に置き換えるのかという問題があるので、ブロンズになるということ自体、多額のお金と人を用意しないとできないことであり、政治性を帯びてくる。

── 小田原さんと同世代の彫刻家の方々は、彫刻の孕む政治性といった問題意識を共有されていると感じますか。また、そうした問題意識は、学会での研究でなされていたりするのでしょうか。

小田原 「AGAIN-ST(アゲインスト)」という、東京の美大の彫刻学科で教えていらっしゃる作家さんと学芸員の方による彫刻についてユニットがあるのですが、今年彼らの本が出て、彫刻を考えようという動きはあるように思います。けれど、私が『彫刻の問題』で示したような問題設定は、彼らのそれとは異なるものでした。ですから、問題意識を共有できるのはむしろ銅像研究の方だったりします。これまで彫刻ではないとされてきた彫刻についての研究です。

── 彫刻研究と銅像研究が切り離されてしまっている状態とお考えですか?

小田原 そう思います。そして、そのことは私だけではなく、何人かの方が指摘しています。ここ数年で銅像研究の重要な著作が2冊(木下直之『銅像時代──もうひとつの日本彫刻史』岩波書店、2014年と、平瀬礼太『銅像受難の近代』吉川弘文館、2011年)出版されたので、検証されるべき時期がきているのだと思います。

長崎と矢印

── 先ほど、制作とリサーチを並行して考えていらっしゃるというお話がありましたが、これは「手の快楽」の問題と結びついている印象がありますね。小田原さんは、長崎の爆心地跡に一時建てられた矢羽の標柱をテーマにした作品を制作していらっしゃいますけれども、やはりその矢印も、ある意味作家個人の「手」と切り離された存在ですね。

小田原 私は作品の展示を通して、長崎の爆心地点を示した矢印を日本のいろいろな場所に再現するということをしていますが、そもそもこの標柱はなにかの表現物でもなく、作者も分かりません。おっしゃるように、作家の手からは切り離されています。私は、この矢形の標柱が戦後日本の公共空間における彫刻的なものの起点だと捉えていて、彫刻の「はじまり」を何度も再現していくプロジェクトとして作品展示をしています。

── 日本の公共彫刻をめぐる議論は、学会などでなされてきたのでしょうか。

小田原 たとえば、長崎の矢印とほぼ同時期に作られ、日本の公共空間に初めて置かれた裸婦像《平和の群像》は、電通の広告記念碑というかたちで建つわけですが、戦中には軍人像を置いていた台座を再利用して、女性の裸体に平和という名前を付けて公共の空間に置くことに、私は意図を感じています。GHQは「明白な軍の記念碑は移すべき。移動した空白を平和的シンボルで埋めるべき」と日本の状況を分析していたので(GHQ/SCAP文書CIE(C)06763)、「平和的シンボル」が電通を通じて出現したことは、彫刻を利用した女性の解放や民主化の宣伝であると考えることもできるのではと思います。私の見立てでは、これらはいずれも日本の戦争体験を経て生まれた公共彫刻ですが、このようなことは、これまで学会や美術批評家のあいだでも全く話題になることはなく、検証されてもこなかった。検証するにも生々しい話だと思うのですが、それを歴史化する営みの中で彫刻史が形作られていかなければならないのではないかと思います。そういうことを研究したり、取り上げたりする人を待っていたのですが、なかなか出てこないので自分でやるしかないと『彫刻の問題』をつくりました。

── 矢印の作品について、制作過程において学会や研究者との接点はありましたか。

小田原 長崎の矢印の存在は、もともとは2010年くらいにある学芸員の方から教えていただきました。その時は、作品に関わってくるということはそんなに意識していませんでした。ただ、矢印記号をモチーフにした作品をつくっていたので、学芸員の方は矢形の標柱があるということが私の作品制作のために良いと思って教えてくれたようです。

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小田原のどか《↓》(写真は2017年展示のもの)

あまりにもテーマが重かったことと、長崎とどういうふうに関わっていいのか分からないことで、1年くらい取り組み方を考えていました。そんな中、2011年の3・11の後に友人が展覧会を企画して、出品して欲しいと言われました。「場所愛の更新」が展覧会の主題でした。その時に、友人と話し合って、長崎の矢印を作品化しようと決めました。その時も、長崎に行くということは思わずに、むしろ長崎には行かずに、写真から自分が受け取ったことや、行かないということに重要性を見出そうと思っていました。ですが、2011年に初めてネオン管で矢印をつくってから発表を重ねる内に、どうしてこういうかたちのものが爆心地に立ったのかを知りたいという気持ちが抑えられなくなりました。

そこで、東京で調べ始めたのですが、先行研究も資料もない。どうしようかと思っていた時に、日本記号学会の研究助成を受けて、それを理由にして長崎に行くことにしたんです。観光では行けないと思っていたので、助成を受けることによってなにかしらのかたちで報告書や論文を書かなければならない、とことんやらなければならないという状況を自分でつくりました。そして、2014年に初めて長崎を訪れることになります。実際に現地に足を運んで、長崎の平和公園に強い違和感を覚えました。平和公園にある富永直樹(1913-2006)という彫刻家の母子像を見て「なんだこれは」と。同じく平和公園にある北村西望の《平和祈念像》も「なんだこれは」なんですが、その違和感がどういうことなのかを自分の中でほぐしていった。ちょうど、長崎での調査方法に悩んでいた時に、長崎新聞の記者の方と知り合い、長崎新聞の「往来」という外から長崎に来た人々の声を紹介するコーナーに、私の彫刻家としての「平和公園が彫刻による展覧会場に見える」という趣旨の意見を紹介してもらったりしました。「往来」に掲載される少し前には、標柱を使った自作も長崎新聞で取り上げてもらいました。作品展示の際には長崎新聞に掲載されていた1946〜48年ごろの原爆碑の写真も展示していたので、過去の長崎新聞が現代の作家によって使われているということも含めて記事にしていただきました。新聞に出ると、いくつかリアクションがありました。矢羽のことを知っている人に話を聞きたいと考えていたこともあって、記事の掲載を通じて、長崎で証言の聞き取りをしている人たちとつながりやすくなりました。

ですが私は、矢形標柱の記憶を持っている人がどういう人なのかが、全然分かっていなかった。つまり、原爆投下直後の爆心地を見たのは、原爆の投下を生き延び、被爆の経験を持った人びとであると理解していなかったのです。矢羽の記憶を持っている方々には個人ではアポイントメントが取れないこともあり、「長崎原爆の戦後史をのこす会」に同行して原爆碑の聞き取りを行いました。被爆を体験した方々の話を聞くことを通して、「長崎とは一体なんなのだろうか」という事を考えるようになりました。その問いが『彫刻の問題』に書いた、「戦後日本の彫刻において長崎はもっとも重要な場所」という一文になります。そう思い至ったのは、長崎に行き、大変な経験をされた方に直接聞き取りを重ねたことが大きいです。高齢の方が多いので、コンディションによって記憶がおぼろげになることもある中で、自身も被爆され、目の前で家族を亡くし、差別を受けながら生き続けてきた時間について聞くというのは、ほんとうに貴重な経験でした。

── 「長崎原爆の戦後史をのこす会」は学会の方や研究者など、いろいろな方が参加されているのですか?

小田原 研究者の方が中心ですが、長崎のマスコミ関係の人も多いです。「証言の会」含め、長崎にはこういう会がいくつかあります。「のこす会」の証言記録集『原爆後の70年──長崎の記憶と記録を掘り起こす』は、戦後70年の長崎市の助成を受けてつくられました。本にしなかった部分の聞き取りのストックもあり、現在も長崎の戦後史をアーカイブしていく活動をやってらっしゃいます。

── 長崎での制作やリサーチの成果を、学会発表や書籍で発表するご予定はありますか?

小田原 実は、まだかたちになっていないのですが、ある出版社から長崎の本を出すという話が2年くらい前からあり、難航していますが、長崎の絵画や彫刻、写真を表象文化論的視点から広く扱う予定です。そこで寄稿をお願いしているのは、私がもともと論文や著作を読んでいて、非常に勉強になったという方々です。

制作の成果ということでいえば、『彫刻の問題』は、自分の作品で得た賞金を使ってつくっています。群馬県立近代美術館が主催の「青年ビエンナーレ」という2年に1回のイベントで、長崎のネオンの作品で賞をいただきました。その賞金が50万円だったのですが、そのお金を長崎のために使おうと、執筆者の謝礼や本の制作資金にしたり、企画中の長崎の本の資金にもしています。『彫刻の問題』ついては自分で運営しているトポフィルというレーベルで出しているので、利益分岐点を計算して発行部数は自分で決めています。

── その出版レーベルは、どのように運営されているのですか?

小田原 このレーベルは、2011年に私と友人2人、1人は今、鳥取大学で講師をしている映像作家の佐々木友輔さんと、もう1人は谷中にSCAI THE BATHHOUSEというギャラリーがありますが、そこのスタッフをしながら、自分のギャラリーも運営している平嶺林太郎さんで始めました。そんなに頻繁に本を出しているわけではなく、『彫刻の問題』で4冊目なのですが、3人でそれぞれ独立して責任編集権を持っていて、本を出したいと思ったタイミングで協力し合うというかたちです。8月には、佐々木友輔さんの編著で5冊目の映画についての本を刊行することになっています(『人間から遠く離れて──ザック・スナイダーと21世紀映画の旅』トポフィル)。

私は大学院生の頃から、出版の校閲や校正を専門とする会社で働いていて、今もその会社で美術雑誌や書籍の校閲の仕事をしています。なので、本の編集や校閲は自分ひとりでやることができています。

── 本を書かれるだけではなく、出版にも関わっているのですね。

小田原 そうですね。自分たちで運営しているレーベルについては、ツバメ出版流通という取次が間に入っているのでとても助かっています。営業や、流通に関するお金の細かいところをマネージメントしたくてレーベルをつくったわけではなかったので、なるべく面倒なことが少なくなるようにやっています。立ち上げた当初は本の流通のことがなにも分かっていなくて、自分たちで全国の書店に注文書をFAXで送ったのですが、折り返して注文が来た時に、会社ではないので取引ができないことを書店の方から言われて始めて知りました。そういう基本的なところも分からないまま始めたので、ツバメ出版流通さんにはいろいろと教えていただきました。

── 一緒に運営されているお二人も、ご自身が現場に携わっている方々ですよね。その方々も、出版に直接携わりたいという目的意識をお持ちなのでしょうか。

小田原 発起した時に、ちょうど本をつくりたいということや、助成金でカタログをつくりたいということが上手くタイミング的に重なりました。大変なことを3人で分担すれば上手くいくのではないかと。当初は30歳になるまでの20代限定のプロジェクトとして始めましたが、今でも継続しています。オフィスがあるわけでもなく、住む場所もバラバラで、決まった会議があるわけでもなく、スタンドアローンでやっています。

彫刻/モニュメントのこれから

── モニュメントの問題に戻りますけれども、小田原さんのお話を伺っていて、ふと、マヤ・リンによるワシントンのベトナム戦争戦没者記念碑のことが思い起こされました。マヤ・リンのこのモニュメントは、戦争で亡くなった方々の名前を壁一面に刻み込んだもので、「名前」という文字を中心に据えることで、慰霊碑として、再現表象的な像を据えないという選択をしている。長崎の《母子像》にしても、具象彫刻が慰霊碑として機能するときの難しさがあると思うのですが、慰霊のためのモニュメントを考えるとき、学会の議論としては、どんなものが可能であるとお考えになりますか。

小田原 マヤ・リンの記念碑を撮影したハルーン・ファロッキの《トランスミッション》という映像作品があります。2015年の「パラソフィア(京都国際現代芸術祭)」に出品されたのですが、その映像の中に遺族の方がベトナム戦争戦没者記念碑に触れる様子が記録されたシーンがあります。石が鏡のように反射して、まるであちら側から手が出てきて、モニュメントの表面があちらとこちらの境界の様に見えるんです。「向こう側」に故人の名前を介して触れる。そういうことを含めてあのモニュメントはあるのだと思いました。

モニュメントについては、今は過渡期だと思います。機能を持ち続けていられるのかという点で後世から検証されるであろうモニュメントがいくつも出てきていると感じます。1996年に長崎の母子像の問題が起こってしまった時に、1993年に起きていたドイツのノイエ・ヴァッヘ(「戦争と暴力支配の犠牲者のための国立中央追悼施設」)のケーテ・コルヴィッツの母子像の問題と接続できればよかったのにと思います。モニュメント史として見た時に、慰霊の場と母子像という問題が共通して起こっているので、並列に語りうると思うのですが。そこの接続が当時はされなかったことを今も残念に思っています。もし接続することができていたら、モニュメントをめぐる議論も変わっていたのではないかと思います。

── 誰がそれを望むのか、誰のために建てるのかという問題と関わってきますよね。

小田原 そうですね。慰霊や祈念する主体の問題もありますし、母子像というものに対しても、母親と子どもになにが投影されるのかでいろいろな問題が生じてしまいます。具象彫刻になにを投影するのかという問いを考えるには、長崎の平和公園がとてもいい例になると思いますが、そのような見方でまだ見られていないので、もったいないと思っています。本の出版を通じて「彫刻の問題」という設定をしましたが、長崎の平和公園の彫刻の有り様というのは、彫刻に関わる人間だけでなくもっと多くの人に知られ、広く議論されるべきです。ドイツでも、マヤ・リンのモニュメントでもそうですが、批判があり、論争が起こりました。名前を刻むというところにも、いろいろなものがこぼれ落ちている側面がある。また、当事者とは誰なのかという問題もあります。そういった議論が日本でも深まることを期待して、活動を続けていこうと思います。

── 今日はお話をありがとうございました。

2017年5月26日
神楽坂にて

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年7月29日 発行