終わりなき対話I 複数性の言葉(エクリチュールの言葉)
本書は、1969年に刊行されたブランショの大著『終わりなき対話』の第一部の全訳である(訳業はほぼ湯浅博雄・上田和彦の二名によるもので、郷原は一篇を担当しただけである)。『終わりなき対話』は、第一部「複数性の言葉(エクリチュールの言葉)」、第二部「限界─経験」、第三部「書物の不在(中性的なもの、断片的なもの)」の三部構成となっており、第一部には、「はしがき」と物語的な対話体テクスト「終わりなき対話」の他に、九篇の論考が収められている。これらの論考の元になっているのは、1950年代末から60年代にかけて『新フランス評論』誌に掲載された原稿であり、単行本としては、『文学空間』(1955)、『来るべき書物』(1959)に続くブランショの思索の航跡となっている。
では、『来るべき書物』までの著作、および、『終わりなき対話』第二部・第三部と比較して、本書の特徴は何か。それは、40年代・50年代と文学論に取り組んできたブランショが60年代前後になって取り組んだ、いわゆる「他者論」がその中心に置かれていることであり、その議論の枠組みは、どちらかといえば哲学的である。とはいえ、両者が無関係であるのではなく、それどころか、文学論において探究されてきた言語のありようが、ここでは他者関係において追求されているのである。そのような深化のきっかけをつくったのは、ストラスブール大学時代からの親友であるレヴィナスの思想、とりわけ『全体性と無限』である。1961年に刊行されたこの著作の元になった原稿を、おそらくブランショは読んでおり、そこに、自分が文学論において探究していた「見知らぬもの(l’inconnu)」が「他なるもの」として主題化されているのを見出したのである。ブランショは本書で、レヴィナスの他者論を受け継ぎつつ、しかしそのまま受け入れるのではなく、他者の非対称的な高さをめぐる命題には疑念を呈しながら、他者関係を、弁証法的な全体性を求める媒介的な関係からも無媒介的な一体性を求める関係からも逃れ去る「第三類の関係」として思考し、そこに見出されるものを「中性的なもの(le neutre)」と名づけた。
「中性的なもの」という後期ブランショの概念は、本書の他者論において初めて明示され、そして第三部で改めて文学の問題として取り上げ直されることになる。「中性的」と便宜的に訳されているneutreは、元来ラテン語で「一方でも他方でもない」を意味する語neuterであり、「中性的なもの」とは、他者関係において「あいだ(entre)」に聴取される何かである。それが本書のタイトルにもなっている「終わりなき対話(entretien infini)」というコンセプトに繋がっており、ブランショは本書において、二人の者が意見の一致を目指すのでも合一を目指すのでもなく、「あいだ」──あるいは「隔たり」「中断」「差異」──に向けて終わりなく言葉を差し向け、耳を傾けるような、「あいだを保つ対話(entretien)」を他者関係のモデルとしている。それゆえ、所収論考の一部──とりわけレヴィナスを念頭に置いたテクスト──は対話体となっており、こうした形式の実験的探求は第三部まで続けられる。
本書はかくして、ブランショがレヴィナスの「他なるもの」をいかに「中性的なもの」に読み替え、独自の他者論にして言語論を練り上げたかを示しており、ブランショのみならずレヴィナス思想やその展開に関心のある向きにも大いに資するところがあると思われる。『終わりなき対話』の第二部・第三部の翻訳も、追って、第二巻・第三巻として刊行予定である。
(郷原佳以)