個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論
アニメーション研究を牽引する著者による、博士論文を改稿した待望の単著である。副題にその名が見られるユーリー・ノルシュテインの作品、とりわけ『話の話』(1979)を最大の手がかりとしつつも、古今東西あらゆる種類のアニメーション表現に視野を広げ、その可能性へと理論的かつ歴史的に迫った気宇壮大な一冊だ。
ノルシュテインが導きの糸になっていることからも推察されるように、本書で最も紙幅が割かれているのは、(多くの場合)非商業的な場で制作される個人作家たちの作品である。しかし著者が目指しているのは、そうした作品を(日本でしばしば「アート・アニメーション」という呼称のもとにカテゴライズされる際のように)「芸術」として称揚し、その他の商業主義的なアニメーションからの峻別を図ることではない。むしろ、最初のチャプターで明快に断りが入れられているように、商業と芸術、集団と個人といった二項対立を「無効化」することこそが本書で企図されているところのものである。実際、議論の終盤では、たとえば宮崎駿の(つまりスタジオジブリによる大ヒット作である)『風立ちぬ』(2013)までもが、本書でいう「個人的な」作品に近似したものとして取り上げられている。
このような「無効化」は何によって可能となっているのか。著者は、議論の出発点であり終着点でもある『話の話』について、同作が「謎めいた」作品として困惑の身振りとともに受容されてきた経緯を紹介し、その「謎」についての先行研究を参照した上で、言葉の上では極めて単純明快なひとつの答えを与えている。それが件の「個人的な」という鍵概念である。すなわち、『話の話』は「個人的な」作品であるがゆえに、作家自身以外のあらゆる人間にとって理解しきれない「謎」を残すものだというのである。謎めいた作品のその謎の由来が「個人的なものだから」というのはあまりに単純で説明になっていないのではないかと危惧する向きもあろうが、著者はこの答えを冒頭で早々に示した上で、その内実をこそ丹念に論じていく。徐々に明らかとなるのは、アニメーションの理論と歴史を理解するに際して、この鍵概念がいかに決定的な役割を果たしているかである。「アニメーション映画」という概念の歴史的な形成過程、ディズニーとの並行関係、エイゼンシュテインによる「原形質性」をめぐる理論、CGによって自動的に運動が生成される現代のアニメーション環境、エトセトラエトセトラ。こうした多様な論点のすべてが「個人的なハーモニー」という主題を通して束ねられ、アニメーションなるものの可能性の中心を力強く指し示す。
現代日本のアニメーション研究において、とりわけ理論的な側面に関しては、ほとんど類書のない画期的な達成でありながら、同時に、学術的な構えで書かれた博士論文がもとになっているという事実を忘れさせるような、強靭な批評性に貫かれた書物である。言わずもがなのことを付記するなら、その揺るぎない強靭さを支えているのは、世界中を飛び回り、研究者としてばかりでなく、配給やキュレーションにまでも実践的に携わってきた著者だからこそ得られた、アニメーションへの確信の深さであるのだろう。
(三輪健太朗)