終わりなきデリダ ハイデガー、サルトル、レヴィナスとの対話
終わりなきデリダ。著者の経験的な死の後もエクリチュールが残存し(survivre)、死後の生(survie/survivance)を生きるということを絶えず述べつづけ、そして読解という行為の終わりのなさ──すなわち、読解対象の言わんとすることを総括化し、全体化するような「決定的な意味」を与えることの不可能性──を主張してきた哲学者をタイトルに掲げているのだから、その「終わりなき」ことをもタイトルに据える必要は殊更あったのだろうか。評者には確かではない。ただ、哲学者が鬼籍に入ってから10年以上が経った現在もなお、デリダ研究の勢いは衰えを知らない。むしろ彼の遺稿の公開や出版などから、さらに新たな問題が提示されつつあることもまた事実である。
脱構築研究会・日本サルトル学会・ハイデガー研究会・レヴィナス研究会の協働で編まれた本論集でも、他者、現前性−音声中心主義批判、贈与などのいわゆる「デリダ的」なテーマが新たな角度から扱われているだけでなく、デリダの初期のセミネールや晩年の動物論など遺稿の出版により注目されるテーマもまた論じられている。さらに、デリダのサルトル読解の新たな側面の発見(「ポスト実存主義者としてのサルトル」など)には、西山論文でも引かれているE・ベアリングの綿密なアーカイヴ調査によって出版されたThe Young Derrida and French Philosophy, 1945-1968が大きく寄与している。本論集はそのような文脈に応答し、デリダ研究の新たなフェーズの可能性を提示している。
また、巻末にはデリダ自身がサルトル、ハイデガー、レヴィナスを論じたテクストの解題、およびデリダと三者の関係をめぐった研究文献の紹介も付されており、資料的価値も十分備えている。本論集は2010年代半ばの日本でのデリダ研究の達成を高度に示す、「決定版」ならざる見取り図として意義深いものとなっているだろう。
(吉松覚)