翻訳
インティマシー あるいはインテグリティー
法政大学出版局
2016年7月
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表題の「インティマシー」は、ちょうど日本語の親密」にあたり、例えば「甘え」や「世間」なる概念を思えばよい。しかし「インテグリティー」なる英語は、それに相当する日本語も概念もない。(つまり説明のしようがなく、本書を読んでもらうしかない。とりあえずは西洋流の「個人」を生み出した文化的素地のごときものとしておく。)ところで、「インテグリティー」(個人)も「インティマシー」(「甘え」・「世間」)も、ともに「主体」の在り様に係る根本的で重要な文化的素地であることに間違いはない。もしここで(日本に代表される)「インティマシー」の文化的素地と(欧米に代表される)「インテグリティー」の文化的素地の対立と片付けてしまったならば、手垢の付いた「東西文化対立」の焼き直しに終わるしかない。しかしここで著者は、米国という超「インテグリティー」社会における「インティマシー」事態の存在を確認し、それを梃子にして、運命的な「文化的素地」ではなく「文化的指向性」という概念装置を考案する。水と油の「インテグリティー」と「インティマシー」の二極は、「文化的指向性」の装置として把捉されるとき、「文化の壁」は崩壊し始める。
(高田康成)