論集 蓮實重彦
「束になってかかってみ」たのは数えると27人で、すると自然に3×9という掛け算が思い浮かべられ、だから野球のこと、そうしてこれまた自然に、よく知られているとおり蓮實重彦が不世出の捕手であることに思い至る。「かかってみ」た側は、それで、打者なのか、投手なのか。「束」のひとりになった身としてどうしたって思いを重ねるのは、負け試合だから投げてみろ、と無理にマウンドに立たされた投手の身の上であって、やけくそさ、荒れてやれ、と思って投じた球もごことごとくがミットにするする捉えられ、しかしもちろん、すべてがボール球なのだった。そのうえ、どこに投げているのだ、と捕手が無表情で、たぶん不機嫌である。あるいは、ストライク・ゾーンのない野球のようだ。『「ボヴァリー夫人」論』はそのように書かれている、と書きつけておく。
で、打者の立場になれば、どうなのか。わたくしは三球三振であったとして、そもそも振ってはいけなかったかもしれない。だが、もちろん、あなたのような者がそうしたことが述べている、というそのすべてがどうでもよろしい。ただ、全体として完全試合であった、などとまさか思わない。書物のなかに、たぶん振ることをしなかったから爽快にあちらこちら──野手を忘れていていた──を抜けゆく捉えがたい球跡がいくつも留められて、それは、やはり、およそのところ、映画について論じる蓮實重彦について論じたひとのおかげである、と書きつけておく。その球跡の捉えがたさを無表情に言祝いでいるのは、不世出の捕手であるそのひとだろう。
記してみて、本当のところ思い浮かべているのは、ほぼ巻末、捉えられそうで捉えられていないひとの姿を捉える、とよた真帆が提供した写真である。捉えがたさを捉えられたさまを捉えられて、その不意の捉えを、捉えられたひとが言祝いでいるように思うから、ぜひ、ご覧になってくださったなら、と願う。
捉えがたいひとを捉えられるとはもとより思わずに、ただ捉えるふりをして捉えられなかった者の思い違い、ではない。一巻の締め括りに相応しい像であると思う。どうしてそう思うのか。説く気持ちもないが、もしも、というのであれば、蓮實重彦が山田爵訳『ボヴァリー夫人』(河出文庫、2009年)に寄せた「解説」の息呑む幕切れと何かしらが通じているように思うからである。
(森元庸介)