日時:2014年11月8日(土)
場所:新潟大学五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F272教室
12:00-14:00
・江村公(同志社大学)「総合芸術とアジテーションのはざまに――ロシア十月革命後の記念碑論争」
・瀧上華(東京大学)「フレデリック・キースラー《ブケパロス》――洞窟的展示空間」
・利根川由奈(日本学術振興会)「ベルギーの「象徴」としてのルネ・マグリット――第二次世界大戦後におけるマグリットの展覧会とベルギー教育庁の芸術政策の連関について」
司会:田中純(東京大学)
江村公(同志社大学)「総合芸術とアジテーションのはざまに――ロシア十月革命後の記念碑論争」
本発表の目的は、ロシア十月革命を記念するモニュメントに関する当時の議論を踏まえ、戦時共産主義からネップという移行の時期の、記念碑の概念を再考するものである。帝政時代の都市の様相を変容させるだけでなく、その記憶をも書き換えるための手段として、記念碑は大きな役割を担うことになった。
教育人民委員部は設立当初から革命を記念するための行事やモニュメント建設の実務的な議論を行っていた。一方、1919年に発表された記念碑的建築制作に関するコンペの告知が、構成主義者たちの創造に大きな影響を与えたといわれる。
公的な文書においても、過去の出来事を記念する方法に関して、さまざまな意見が交わされたことがわかるが、その錯綜した議論の多様性を明らかにするために、まず、モスクワの芸術文化研究所が、カンディンスキイの指導の下に記念碑芸術部門をその母体として設立されたことに着目し、彼の記念碑的芸術についての言説を考察する。なお、記念碑プロジェクトの例としては、タトリンの《第三インターナショナル記念塔》がよく知られているが、この計画と模型は、カンディンスキイ的な記念碑概念と構成主義におけるそれとの、狭間に位置づけられることを明確にしたい。くわえて、この時期の記念碑概念をめぐる議論と構想が1920年代初頭の建築とはいえないような、多数のインスタレーション作品の計画を生み出すことになったことも示唆する。
瀧上華(東京大学)「フレデリック・キースラー《ブケパロス》――洞窟的展示空間」
フレデリック・キースラー(1890-1965)は、その人生の最晩年に《ブケパロス》という作品を制作した。《ブケパロス》は巨大な馬の形をした彫刻であり、同時に内部に空間を持つ建築でもある。また、内側の壁にはレリーフ状のイメージが施されており、内部に入り身を横たえそれらを鑑賞することが想定されていた。本発表は、ドローイングや制作時に撮影された写真をもとに、《ブケパロス》について分析を加えるものである。その際、キースラーがこれまで手掛けた劇場、映画館、ギャラリーといった一連の展示や鑑賞のための空間の中に《ブケパロス》を位置づけることで、ひとつの鑑賞装置としての《ブケパロス》像を浮かび上がらせ、キースラーにとって《ブケパロス》がホワイト・キューブとしての展示空間と、ブラック・ボックスとしての劇場や映画館という両者を批判的に乗り越える存在であったことを示したい。また、《ブケパロス》において鑑賞者として設定されているのがキースラー自身であるという《ブケパロス》の私的な特徴に着目し、《ブケパロス》においては制作と鑑賞という行為が重なり合い、それゆえにキースラーにとってひとつの世界の把握と構築の方法として機能していたこと、そしてそれが、キースラーが追求してきた自らの建築理論全体に対して、重要な意味をもつことを明らかにする。
利根川由奈(日本学術振興会)「ベルギーの「象徴」としてのルネ・マグリット――第二次世界大戦後におけるマグリットの展覧会とベルギー教育庁の芸術政策の連関について」
美術史家のミシェル・ドラゲは、1954年に行われた2つの展覧会によって、ルネ・マグリット(1898-1967)はベルギーの「象徴」となったと述べた。2つの展覧会とは、第27回ヴェネツィア・ビエンナーレのベルギー館の展示と、ブリュッセルのパレ・デ・ボザールにおけるマグリットの回顧展を指す。彼がこれらの展覧会をマグリットが象徴となった契機と見なした理由は、その独特なキュレーションのためである。たとえばヴェネツィア・ビエンナーレではヒエロニムス・ボスとマグリットを「幻想性」というキーワードでつなぎ、その「幻想性」をベルギー美術の特質であると強調した展示が行われた。上記の展覧会は当時ベルギーにおける芸術政策を担っていたベルギー教育庁の主導で行われていたため、マグリットは教育庁から、芸術政策を体現するための画家として要請されていたという可能性が浮かび上がる。戦後マグリットが教育庁の依頼で7点の公共事業を手掛けたことや、教育庁の下部機関であるベルギー・アメリカ美術協会が開催した「ベルギーの美術:1920-60」展(1960年、NY)でカタログの表紙にマグリットの絵画≪剽窃≫(1954年)が使用されたことからも、マグリットと教育庁の強固な関係性が窺えるだろう。したがって本論文は、上記の展覧会のキュレーションや展示作品の検討を通して、1950年~60年代における国内外のマグリットの展覧会と教育庁の芸術政策の関連の内実を明らかにすることを目的とする。