7月6日(日)16:30-18:30
駒場キャンパス18号館4Fコラボレーションルーム1

・痕跡と切迫――デリダの差延論と決定の思考/吉松覚(京都大学)
・力の差異としての歴史の構想――デリダのハイデガー、ニーチェ読解から/島田貴史(東京大学)
・『資本論』の亡霊たち――ジャック・デリダと柄谷行人のマルクス読解をめぐって/唐橋聡(東京大学)
【コメンテーター】宮﨑裕助(新潟大学)
【司会】吉松覚


パネル概要

ジャック・デリダが歿してから10年が過ぎようとしている。当パネルは、デリダの歿後に研究を始めた、つまりある意味で「リアルタイムではない(en temps différé)」世代の研究者が彼の思想に応答しようと試みるものである。そしてまさにこの応答の企図は、彼の思想に一貫する差異化(différenciation)と時間化(temporalisation)の問題について、デリダの内在的読解に始まり、彼の歴史への態度の検討を経由して、その思想の持つ不可視の可能性の中心に迫っていくことである。
吉松発表では、デリダの主要概念、「差延」の遅れと切迫という一見矛盾する二側面について、『法の力』の前半部におけるアポリアを範例に、時間論の見地から検討する。
島田発表では、デリダのハイデガー読解とニーチェ読解を端緒として、彼の構想していた「力の差異としての歴史」に焦点があてられる。
最後に唐橋発表では、デリダのマルクス読解(『マルクスの亡霊たち』『マルクスと息子たち』)と、柄谷行人のマルクス論とを引き比べ、『資本論』をデリダ、柄谷両者の考えていた時間化と差異化の問題の結節点に位置付けることで、デリダが指摘することのなかった、『資本論』における亡霊たちの形象を浮かび上がらせる。
以上を通じてデリダの思想における時間・歴史の問題を検討することで、この思想そのものをどのように歴史のなかに位置づけうるのかを明らかにすることが当パネルの課題である。

痕跡と切迫――デリダの差延論と決定の思考/吉松覚(京都大学)

ジャック・デリダの思想は端的に、差延などの哲学素に代表されるような「遅れ」の思想と形容されることがある。だがしかし、このことはただ単に遅れてしまうに任せるということを指すのではない。寧ろ、デリダ自身が、差延そのもののために切迫しているとさえ言っている。われわれは本発表で、差延の持つ「遅れ/切迫」というこの二側面を、1980年代以降のデリダによる政治論――とりわけ『法の力』第一部を範例とする――における「決定不可能性」と「決定」という、一見相矛盾するかに見える二つの要素の関係と類比的に検討していく。具体的には、初期以来の痕跡の亡霊化と遅れ、そして決定不可能性という側面については最晩年のデモクラシー論における繰り延べ的脱自を補助線に据えて思考する。さらに、差延の切迫、決定の切迫という側面についてはブランショ論や、ハイデガーを読解した時間論、さらにはアナクロニーについて言及したマルクス論を参照し、差延と切迫の関係を探っていく。これらによって、遅れと切迫、決定不可能性と決定はなぜ差延という一つの概念のうちに共存するのかを明らかにする。
以上の議論から、無限の正義や責任という問題、無限なものに対するわれわれの有限性とその境界画定というデリダの哲学的企図をわれわれは浮き彫りにするだろう。同時に、所謂「政治的転回」を決定づける著作と見做されてきた『法の力』に、転回点ではなく初期と後期の「結節点」としての位置づけを与えることを試みたい。


力の差異としての歴史の構想――デリダのハイデガー、ニーチェ読解から/島田貴史(東京大学)

本発表では、デリダが断片的に書き遺した、可能と不可能、強さと弱さが交換される〈力の差異としての歴史〉に向けて、彼がどこまで議論を進め、どのような構想を抱いていたか、彼のハイデガー、ニーチェ読解から追跡する。
ニーチェの生を全体化することでニーチェを生物学主義から救うハイデガーが、同時に人間主義を再導入したことをデリダは明かす。ニーチェに存在史の思惟を禁じるハイデガーによる人間主義の再導入にこそデリダは、動物の歴運的現象(存在が贈られ(zuschicken)かつ宙吊りにされる(エポケー)歴史としての歴運(Geschick)同様、人間主義的観点のみによる動物の現象)を読み込む。生物学主義からの救出を可能にしたものが人間主義の回避を不可能にするこの歴運を、我々は、デリダがハイデガー読解によって示した〈力の差異としての歴史〉として読むことができる。
他方で、ニーチェ読解も、ハイデガー読解と呼応するようにデリダによって継続されていた。〈力の差異〉は、力への意志の差異、つまり意志の自己との非同一性を意味し、デリダが晩年に序説を書いた〈嘘の歴史〉におけるse mentirの問題の背景を成すと考えられるからである。ここにもまた、〈力の差異としての歴史〉の構想を我々は見出す。
最後に我々は、〈力の差異としての歴史〉の構想の一部として断片的に配置された他の論点に接続し、デリダがそれへ向けどこまで議論を進め、どのような構想を抱いていたか、明らかにする。


『資本論』の亡霊たち――ジャック・デリダと柄谷行人のマルクス読解をめぐって/唐橋聡(東京大学)

デリダが明示的なかたちでマルクスに取り組み、その「継承」を指向したのは、90年代以降の後期の著作『マルクスの亡霊たち』『マルクスと息子たち』においてであった。だが、ロゴス中心主義、音声主義の脱構築を試みた60年代の仕事、とりわけ『グラマトロジーについて』のなかに、いわば「マルクス的契機」というべきものを見ることができる。
本発表では、まず、柄谷行人によるマルクス論(『マルクスその可能性の中心』『トランスクリティーク』)を参照しながら、自己同一的な言語記号のなかに時間化としてのエクリチュールを見いだすデリダ(『グラマトロジーについて』)の眼差しと、商品の謎を異なるもの(相対的価値形態と等価形態)の等置としての「価値形態」のなかに見るマルクス(『資本論』)の眼差しを、相同的なものとして位置づけることを試みる。その過程で、ルソーとソシュールを同時に相手取るデリダの立ち位置と、ベイリーと古典派経済学への二重の批判において商品を考えたマルクスの立場が、相反するものの「あいだ」に立つ思考として共鳴していることを示す。
続いて、『マルクスの亡霊たち』で提示された「亡霊」の« out of joint »としての時間性を『資本論』読解の問題として検討する。『グラマトロジーについて』におけるエクリチュールの問題と柄谷の「恐慌」に照準するマルクス読解を経由することで、デリダのマルクス論を批判的に継承し、『資本論』のなかにデリダが示さなかった亡霊の契機を跡づける。