日時:2013年11月9日(土)
場所:東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム2
午後 16:00-18:00

・滝浪佑紀(東京大学)「テレビにおける野球中継の分析——映画との比較から」
・谷島貫太(東京大学)「テレビにおける「気分」分析の試み——原発事故報道を題材として」
・劉文兵(東京大学)「中国抗日ドラマと日中歴史表象の可能性」
司会:長谷正人(早稲田大学)

滝浪佑紀(東京大学)「テレビにおける野球中継の分析——映画との比較から」

テレビ番組はどのように分析されうるだろうか。映画におけるショット毎分析を適用するというのが、ひとつの方策だろう。しかし、テレビ番組を単なるテクストと前提することによって、私たちはこのジャンルないしメディアの特性を見逃してしまうのではないか。第一に、「中継」とはテレビ特有の伝達モードだが、これは従来のテクスト分析では十分に考慮されていない。第二に、テレビ番組というテクストは映画に比べ、緩くにしか編まれていないが、この緩さこそがテレビ番組の特性を構成していると考えられる。
本発表では、「中継」であるという点で優れてテレビ的ジャンルであると考えられる野球中継を考察する。野球中継は、空間的にも時間的にも細分化されたショットから構成されており、この点、映画との比較に適しているのである。発表ではまず、野球を主題とした映画として『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』(サム・ライミ、1999年)を取り上げ、同作品における試合シーンを分析する。続いて、高校野球の中継番組のシーンを分析し、映画との比較の上で、中継番組の編集原理の中心には、打者が打つか否か等のプレイの〈偶然性〉があることを明らかにする。さらには、メアリー・アン・ドーン、スタンリー・カヴェル、サミュエル・ウェーバー等のテレビ論を参照し、「フォーマット」や「監視monitoring」といった概念とともに、テレビ中継の伝達モードの含意を考察する。


谷島貫太(東京大学)「テレビにおける「気分」分析の試み——原発事故報道を題材として」

あまりにも大きな出来事が生じると、テレビはフレームワークを失う。番組編成は吹き飛び、テレビは一つの緊張した眼差しとなって、外界に起こりつつあることをそのまま中継しつづける。震災・原発事故後に日本人のテレビ視聴者が目撃したのは、まさにそのような事態であった。ここに見られるのは、Roger Silverstoneがテレビという日常のメディアの役割として見出した「存在論的安全」の対極に位置する、テレビ的配慮のシステムの崩壊にともなって噴出した「存在論的不安」である。
Stanley Cavelはそのテレビ論、”The Fact of Television”のなかで、存在論的な観点からテレビというメディアを描き出している。そこではテレビは、さまざまなフォーマットを通して未知なる未来をあらかじめ待ち受け、理解可能な出来事として次々と消化していく一種のモニタリングシステムであるとされている。しかしそこでは、テレビがフォーマットを消失させるという例外状態は想定されていない。そしてそのことと深く関連して、テレビにともなう気分の問題、とりわけテレビがフォーマットを失った際に生み出さざるをえない「根本気分」としての不安の問題が扱われていない。
本発表では、震災および原発事故直後一週間のテレビ放送をすべて記録したアーカイブを足掛かりに、その当時にテレビが生み出した「気分」の検証を行う。そこでは、言葉に書き起こし可能な「語られたこと」には収まらない、「気分」というテレビ独自の広大な領野が発見されるはずである。また同時にこの研究は、「気分」産出装置としてのテレビという存在に光を当てる試みの序論の位置を占めることにもなるだろう。


劉文兵(東京大学)「中国抗日ドラマと日中歴史表象の可能性」

中国人が抱く日本のネガティヴなイメージをつくり上げた根本的な原因は、両国の間の政治的摩擦よりも、そもそも日中戦争の歴史にあった。戦後生まれの中国人が日本に対して抱いているイメージは、戦争経験者の証言や、学校での歴史教育にくわえ、そのかなりの部分が映像によって形成されている。とりわけ、近年の「抗日テレビドラマ」を抜きにして語れない。しかし、そのほとんどの作品は、超人的英雄としての中国共産党軍と、残忍だが愚かな日本兵の対決という図式のもとで、過酷な歴史をエンターテインメント化しているという傾向が目につく。日本のマスコミにおいても、こうした抗日ドラマが中国政府による反日教育の証としてしばしば取り上げられている。それゆえ、一般の日本人のなかには「中国の抗日ものは、中国人が都合のいいように歴史を書き換えた、荒唐無稽なフィクションである」という漠然とした印象を抱いている人々が少なくないだろう。
しかし、抗日ドラマは、中国国内の社会状況や、日中関係と密接にリンクしている。そのため、たとえフィクショナルな作品であっても、その映像には中国人の歴史の記憶、または欲望が何らかのかたちで投影されているように思われる。近年の抗日ドラマの行き過ぎた表現のなかにこそ、政治的プロパガンダの作用では解釈できない、庶民の本音の部分が見え隠れしている。本発表は、抗日ドラマに描かれた日中戦争の表象を、映像に即した表象分析というアプローチで分析をおこなうことをつうじて、今後の日中の歴史表象のあり方や方向性を示唆し、険悪になりつつある日中関係において打開の糸口を見つけるためのささやかな一石を投ずることを試みる。