6月29日(土)16:00-18:00
第1学舎1号館:A501教室
・personale/per-sonareの詩学――ギリシア悲劇における「声」の出現をめぐって/佐藤真理恵(京都大学)
・不在を運ぶ「声」と聖なる表象――聖史劇における異言、命名、喚問/杉山博昭(京都教育大学)
・舞台上演と典礼の間で――マラルメによる「声」の祝祭/熊谷謙介(神奈川大学)
【コメンテーター】内野儀(東京大学)
【司会】杉山博昭(京都教育大学)
パネル概要
声とはつねに過ぎ去るものであり、そこでは生成と消滅が隣り合わせとなる。わたしたちは、こうした声をいかに表象できるのだろうか。この問題は、声を言葉に固定し、あるいは言葉を声に固定するという試みを通じて古来より検討されてきた。またそれが近代に至るまでアクチュアルな課題として持ち越されたことは、テクストに裂開を見いだし、声へ回帰するというアルトーやベケットなどの演劇上の取り組みにもあきらかである。もちろん、声の問題は演劇のみにとどまるものではない。すでに詩や宗教の伝統は、声に刻まれた音と意味のあいだの深い亀裂を、詩的言語や異言の相のもとに浮き彫りにしている。さらにバンヴェニストをはじめとする言語学の成果も、記号論と意味論の抜き差しならない緊張関係をつまびらかにした。だとすれば、生成と消滅のあいだに、もしくは音と意味のはざかいに現前する声の問題は、詩的経験や宗教的経験にかかわるような長大な射程を持つのではないだろうか。
このような問題意識にのっとって構成されたのが本パネルとなる。つまり「もはや純粋な音ではないものの、いまだ十全な意味でもない」パラドクシカルな声をめぐる経験を、演劇や祝祭をとおして検証する3つの試みである。古代ギリシア、中世イタリア、近代フランスの事例の交差から、主体化や脱主体化、創造や脱創造といった両極性の運動のもとに、声の境界が仄見えるだろう。(パネル構成:杉山博昭)
personale/per-sonareの詩学――ギリシア悲劇における「声」の出現をめぐって/佐藤真理恵(京都大学)
ギリシア古典劇はつとに知られているとおり仮面劇だったが、当の仮面は頭部全体を覆う特異なものであった。役柄に応じて類型化されたこれらの仮面や装身具を纏った上演において、声は、役者の生身が垣間見える、役柄の裂け目ともいうべき殆ど唯一の要素であったといえる。ストア派をはじめ演劇にかんする言説においては、他ならぬこの声こそが役者を称賛するトポスとして用いられていた。つまり、神話上の登場人物「らしさ」を評価するうえで、役者の声質や声の調子が重要な判断基準となりえていたのである。とはいえこの主題は、古典ギリシア演劇研究においてこれまで議論の俎上に上げられることは稀であった。そこで本発表では、主体=役者に帰属されるはずの声が、同時にいかに主体を超えるようなものとして機能していたかを検討する。
本発表ではまた、ギリシア悲劇に頻出する間投詞についても考察を加えたい。悲劇作品において、発話行為はしばしば悲劇的結末の契機となる。言葉が発せられるやいなや、発話行為とその内容は撤回不可能なものと化すが、かような言葉の手前で宙づりにされた曖昧な間投詞は、悲劇のダイナミクスを内包した「声」として位置づけられるだろう。さらに、劇の筋における転換点としての間投詞はまた、司法の場でも用いられていたという点も併せて示唆したい。これらの考察を通じ、ギリシア悲劇において声の孕む緊張や遂行性といった側面が浮き彫りになるだろう。
不在を運ぶ「声」と聖なる表象――聖史劇における異言、命名、喚問/杉山博昭(京都教育大学)
本発表は、15世紀フィレンツェの平信徒が制作した様々な聖史劇を取り上げ、セリフの意味と歌声の音との齟齬に注目し、それが持つ意義を検討するものである。
当時としては相対的に高いフィレンツェ市民の識字率にもかかわらず、依然、聖史劇に期待された機能のひとつは、聖なる物語を見物客にわかりやすく伝えることであった。意味の伝達を第一義とする上演台本の多くが、可聴性に優れた八行詩節という押韻形式で構成されていることも、なかば必然と言える。ただ、各レパートリィの上演台本の読解を進めたときに、必ずしも原典の物語や教義をストレートに反映することのない要素が散見されることも事実である。たとえば「天地創造」におけるアダムの名付けや「神殿奉献」におけるシメオンの祈りといった場面について、間投詞や名前、アンジャンブマン、ラテン語といった観点から分析することは、歌声の音にセリフの意味が遅れる一連の契機、もしくはある種の不在を運ぶ「声」の様態を浮き彫りにする。物語や教義のさらに手前にあるこの「声」、もしくは「声」の否定性にこそ、「場」を開く可能性が宿るのではないだろうか。
社会史研究には、当時のコミュニティにおける聖史劇の価値は、貴賓や祝宴など付随的な要素にあるのであって教条的な内容の上演にはないという指摘がある。しかし本発表の演者の「声」をめぐる検討は、聖史劇の上演が持ち得た宗教的かつ法的な価値の一端をあらたに指し示すだろう。
舞台上演と典礼の間で――マラルメによる「声」の祝祭/熊谷謙介(神奈川大学)
近代演劇において身体とともに隠蔽されがちであった「声」は、「ポストドラマ演劇」において復権を試みられてきた。その淵源に位置するのはベケットとアルトーであり、さらに言えばマラルメの舞台芸術論であろう。一方で、デリダに見られるように、主体の現前を担保する「声」を「文字」によって批判する立場があり、マラルメは「エクリチュールの詩人」として引き合いに出されることも少なくなかった。また俳優による登場人物の表象という様式に対して懐疑を示し、演劇に替わるスペクタクルを求めて、詩人がカトリックの典礼に興味を持ったことも長らく強調されてきた。
本発表では「声」を軸として、「近代人」マラルメが演劇でもなくミサでもない第三の道を模索していることを示したい。「舞台上演あるいは典礼」という二項対立が明示されている彼のカトリシズム論で問題になっているのは、ミサの司祭と異なり、神的なものを模倣してしまうためにその神秘を損なってしまう俳優だけではない。ミサの交感を支える、葡萄酒やパンがキリストの血となり肉となるという受肉の原理もまた俎上に置かれている。「野蛮な食事」ではなく、意味も分からないまま歌われるラテン語の聖歌が、「現存Présence réelle」の教義ではなく「虚構」の原理が、マラルメの未来の祝祭を構成するものとなるだろう。その具体的なヴィジョンの一つとして、「多声の頌歌」と呼ばれる朗読会があったことを最後に示唆したい。