日時:2012年11月10日(土)
場所:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム
午後1 13:30-15:30
・宮本明子(早稲田大学)「「小津的」を構成するもの——小津安二郎・野田高梧による里見弴の著作拝借をめぐって」
・閔愛善(早稲田大学)「周縁的存在の民族誌としての映画——鈴木清順の映画を中心に」
・榎本千賀子(一橋大学)「合わせ鏡の写真論——新潟県六日町今成家に伝わる写真をめぐって」
司会:長谷正人(早稲田大学)
宮本明子(早稲田大学)「「小津的」を構成するもの——小津安二郎・野田高梧による里見弴の著作拝借をめぐって」
小津安二郎の『秋日和』(1960年)には、里見弴の短篇「老友」(1949年8月)の内容に一致する個所が存在する。旧友たちが交わす会話や個々の人物設定においてである。シナリオを執筆した小津と野田高梧は、『戸田家の兄妹』(1941年)をはじめとする複数のシナリオに里見の著作を「拝借」したことを公言していた。しかし今日まで、その具体的な「拝借」の実態が明らかにされたことはほとんどなかった。このようななかで「老友」は、彼らのさす「拝借」の源を具体的に示す事例といえる。
では、なぜそれほどまでに里見の著作は必要とされていたのだろうか。里見と同様に小津が愛読した作家に志賀直哉がいるが、小津は志賀の著作について積極的に語らなかった。『暗夜行路』との比較がなされる『風の中の雌鶏』(1948年)さえ、里見の著作を軸に制作されたという証言もある。小津や野田が里見の著作を拝借したと公言するためには、里見との信頼関係が、また相応の理由があったはずである。本発表では、前回第6回研究発表で掲げた前述の「老友」の事例を起点として、小津、野田による「拝借」の可能性がみとめられる里見の他の著作にも目を向ける。「縁談窶」(1925年4月)や「本音」(1938年7月)、「毛小棒大」(1940年7月)などである。小津をはじめ、出演者らの発言を手がかりとして、『戸田家の兄妹』以降、里見の著作が小津の映画に「拝借」されてゆく実態およびその理由を明らかにすることを試みる。
閔愛善(早稲田大学)「周縁的存在の民族誌としての映画——鈴木清順の映画を中心に」
鈴木清順の映画は、周知のとおり日常というより非日常的である。この日常と非日常は、民俗学でいう民族の二つの捉え方、定住者と漂泊者、常民と旅芸人などの概念に対置できよう。そして清順映画の登場人物の多くは非日常に属する存在、いわば周縁的存在が描かれている。さらに『ツィゴイネルワイゼン』においては、定住と漂泊に喩えられる象徴的人物が二元的世界を示している。清順が所属していた日活のアクションジャンルにおいても非日常は好まれる題材であったが、それはあくまで日常における「事件」として扱われていた。清順の場合は、制限されたシステムのなかでの制作時からも映画の時間と空間の変容を試みてきたといえる。その特徴をもって描かれた世界は、「事件」としての非日常ではなく、時間と空間の非日常の世界になっている。またその世界の人物たちは現実性からかけ離れた、民俗における周縁的存在の面影を持つ。映画に示された人物は特殊職業者、漂泊者、無頼漢などを思い浮かばせる特徴と、性格の面ではある種の狂気性を見せる。その狂気性は周縁なる人々の傾向、たとえば現実に耐えられず放浪する、あるいは突然山に入るといった、日常から離脱する人々に繋がる。これらは自発、環境、遺伝などによる要因別にも分類することができるだろう。本発表は清順映画の重要作品の人物像分析を通じて日本の民俗学で言及された常民以外の存在を文化における周縁的存在として取り上げ、映画にどのように表象されているのか、民俗文化の構造認識として考察していきたい。
榎本千賀子(一橋大学)「合わせ鏡の写真論——新潟県六日町今成家に伝わる写真をめぐって」
江戸期の新潟県六日町は、江戸と新潟を結ぶ交通の要所として人・物・情報が行き交う地であった。この地の旧家である今成家には、江戸の写真師、大鐘立敬より写真を学んだ今成無事平(1837~1881)らが幕末から明治初年に撮影した湿板写真と関連文書が残されている。
まとまった史料に乏しい在村指導者層における初期写真受容の様相を伝えるこの史料のなかに、男が錦絵を抱えて写る一枚の写真がある。この写真に写る錦絵に描かれているのは、鏡像として示された定九郎であり、男が錦絵を抱えるポーズは、写真以前に西洋から伝わった映像機器、写絵=幻灯をモチーフとした山東京伝『人心鏡写絵』(1796)に着想を得たものと考えられる。
この写真は、写真という新種の「鏡」によって、当時写真と競合していた技術であった錦絵が描く「鏡」を、幻灯という写真以前に西洋から伝わった「鏡」に触発された過去の想像力を参照しながら写し出す、合わせ鏡とも呼ぶべき構成をなしている。そして、この合わせ鏡は写真による一種の写真論として読むことができる。
本発表では、この合わせ鏡の写真論が写真という新たな映像技術をいかに捉えているかを分析することを通じ、あまり知られていない地方における初期写真史の一端を示す。また、木下直之『写真画論』等の先行研究によって、都市の有名写真師達の試みを中心に考察されてきた日本における写真と写真以前の視覚文化の関係性を、今成家史料の調査にあたった新潟大学地域映像アーカイブや、東京都写真美術館による「知られざる日本写真開拓史」プロジェクトなど地域に埋もれた資料を掘り起こす近年の研究成果から再考する可能性を考えたい。