日時:7月8日(日)16:30-18:30
・20世紀後半のコンピュータ音楽のプログラミング環境とインターフェイスの系譜にみる人間と技術の相互構成/原島大輔(東京大学)
・ロバート・モリス《作られたときの音がする箱》における録音の意義/金子智太郎(東京芸術大学)
・ゲームはどのように「聴かれる」のか?──ビデオゲーム・オーディオの成立とそのリテラシー/山上揚平(東京大学)
【コメンテーター】渡辺裕(東京大学)
【司会】福田貴成(慶應義塾大学)
パネル概要
レコードやラジオの誕生からDTMの流行、ネット音楽配信の一般化まで、ここ約一世紀に於ける「音」を取巻く技術環境の急変は、長い音楽史の中でも特筆に値する。音楽が技術や産業等の唯物的な要因によっても左右されて来たという主張自体は、従来の芸術音楽史に於いても珍しくは無い。しかし、それらの史書が近現代について語ってきた大きな事象 ――大衆をターゲットとした新しい商業音楽の出現や戦後の前衛たちによる電子音楽の開拓など―― は、この変革の重要性を恐らく汲み尽くしてはいないだろう。なぜなら「創られた」音響を日常に遍在させ、様々な場で我々の聴体験に介入する(或は聴体験の機会そのものを創出する)今日のテクノロジーは、既に「音楽作品の鑑賞」という文脈を超えて広く我々に影響を及ぼしていると考えられるからである。
本パネルは、これ迄の音楽研究がカバーしてこなかった社会の様々な場所でのテクノロジーと<音楽>との出会いに着目し、改めてより広い視野から現代の科学・技術の発展や新しいメディアの普及が、社会における<音楽>の在り方にどの様な影響を齎したのかを問おうとするものである。ここで敢えて括弧付きの<音楽>を用いるのは、まさに技術・メディア環境のラディカルな変容が、音楽という概念や枠組みそのものをも現在進行形で問い直させていると予測されるからに他ならない。果たしてこの変化は人と音響現象とのどの様な新しい関わり合いを生み、またその中でどの様な新しい<音楽>の認識が生まれつつあるのか、この大きな問いに出来るだけ多角的にアプローチする事が本パネルの目的である。(パネル構成:山上揚平)
20世紀後半のコンピュータ音楽のプログラミング環境とインターフェイスの系譜にみる人間と技術の相互構成/原島大輔(東京大学)
20世紀中盤、サイバネティクスや一般システム理論や情報理論に代表されるような、人間と機械とをひとつの生態系に組み込むことで思考を展開するタイプの理論モデルが発展した。それは、一方で人間を環境との複合システムや構築物として理解する地盤を涵養し、また他方ではコンピュータと協働する人間が地球規模で繁栄する基盤を整備することになる。
コンピュータ音楽もその影響の圏内にある。その制作環境のなかでも基礎的な役割を担ってきたのがプログラミング環境であり、関連する多様な技術が開発され、そのインターフェイスも一見すると多様な様相を呈してきたが、その根底的な設計理念はいずれも、1960年にマックス・マシューズらがベル研究所で開発したプログラミング言語MUSIC IIIに実装されたユニット・ジェネレータの理念と同じ地平のうちにおさまるものであるとみなすことができる。
それぞれ固有の機能を備えた複数の信号処理関数モジュールがその変数を相互依存するかたちでネットワーク状に連結することでひとつの音響生成システムを組成するというユニット・ジェネレータ的プログラミング環境は、どのような技術的・社会的・思想的文脈のなかで意味づけられ方向づけられ具体化され標準化されてきたのか、そしてその過程において音楽家としてあるいは音楽作品のなかで人間がどのように概念化されてきたのか。本発表は、20世紀後半にコンピュータという技術環境と急速に結合しはじめた文化における人間と技術の表象についてのひとつの理解を試みる。
ロバート・モリス《作られたときの音がする箱》における録音の意義/金子智太郎(東京芸術大学)
環境音の録音を作品とする、または作品の素材として利用するフィールド・レコーディングと呼ばれる手法は、現在も音による表現の実践のなかで重要性を増している。民族音楽の現地録音や生物音響学の録音資料、映像のサウンドトラックなどとは区別して、アートフォームとしてのフィールド・レコーディングを指すために、「フォノグラフィー」という言葉も使われるようになった。サウンド・アート研究者ダグラス・カーンらが提唱するこの用語は、フォトグラフィーとの対比を含意している。つまり、音楽ではなく写真を参照し、録音による表現のこれまで見逃されがちだった側面を探求しようという発想がこの用語に込められている。では、音楽を参照するときは見逃されがちだった側面とは何か。そのひとつに、撮影行為と対比された録音行為、つまり録音装置によって音を記録し、後でそれを再生するという行為自体をあげることができるだろう。
本発表はこうした近年の動向をふまえ、録音再生行為を表現の中心においた作品の古典として、ロバート・モリス《作られたときの音がする箱》(1961)に注目する。ミニマリズム彫刻、プロセス・アート、またサウンド・アートの文脈などで論じられてきた本作を、音を記録して再生する行為という観点からあらためて考察したい。制作風景を録音することを、プロセス・アートの先駆けとみなす解釈がこれまでなされてきた。それに対して、本発表はむしろ再生装置を箱に入れることに着目し、録音再生行為が制作から鑑賞までのプロセスのなかでもつ意義を問いたい。
ゲームはどのように「聴かれる」のか?──ビデオゲーム・オーディオの成立とそのリテラシー/山上揚平(東京大学)
モニタに視覚情報をフィードバックする形のコンピューターゲーム、いわゆる「ビデオゲーム」は、その黎明期から電子的音響を伴った視聴覚統合コンテンツであった。技術的制約により当初の音響は非常に簡素であったにせよ、ゲームと音響とを結び付けようとした試みは注目に値する。なぜならゲームデザインの中にサウンドデザインが当然の様に組み込まれるという事態は、恐らくはビデオゲーム誕生以降の新しい現象だからである。ゲームは二十世紀後半のエレクトロニクスを待って初めて、プレイに伴う音響を(音色の合成からという点で文字通り)ゼロから創り上げる事が可能となった。しかしながら、一体ゲームはどの様なサウンドを必要とするのだろうか?
本発表はビデオゲームの聴覚的側面を総体的に捉え、サウンドが(或いは沈黙が)ゲームデザインの要求に応じてどの様に新しい機能や意味を獲得してきたかを、古典的作品を例にとり検討していく。モニタの向こうに立ち現れる仮想現実や虚構世界の認識に聴覚要素はどの様に関わるのか。ゲームが本質的に要求する相互作用性や非線形性などの難題に「音楽」は如何に応えているのか。ここで提起される様々な論点は「作曲」側に新たな発想や方法論を要求するだけでなく、音響聴取の新しいリテラシーを獲得するという個々人の問題ともなるだろう。ゲーム体験の社会的共有がテレビやネットに比肩しつつある現代日本に於いてこの事が持つ重要性を考えたい。