日時:2011年11月12日(土)13:30―15:30
会場:東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム2

・齋藤尚大(横浜カメリアホスピタル)「刷り込まれた性──対極的社会脳仮説はいかにパフォーマンス研究に展開されるのか」
・奥村大介(慶應義塾大学)「メスメリスムという文化」
・今村純子(慶應義塾大学)「生と死のリアリティ──映画『私のなかのあなた』をめぐって」
司会:門林岳史(関西大学)

齋藤尚大(横浜カメリアホスピタル)「刷り込まれた性──対極的社会脳仮説はいかにパフォーマンス研究に展開されるのか」

 バーナード・クレスピとクリストファー・バッドコックは、自閉症スペクトラム障害(ASD)と、統合失調症(Sz)に代表される精神病性障害を、対人関係における認知機能を司る社会脳の観点から考察している。彼らによれば、社会脳とは資源や生殖相手をめぐる社会的競争により進化した機能である。ASDではその機能が未発達で、社会的相互作用に障害を来たし、機械論的認知が優勢となる。一方、Szでは社会脳が過度に機能し、特有の精神病症状を来たす。両者は、正常の認知を中心としたスペクトラムの両極に位置付けられ、対極的障害(diametrical disorders)と捉えられている。さらに彼らは、それが遺伝子の刷り込み(genomic imprinting)によって媒介されているのではないかと考えている。遺伝子の刷り込みとは、包括適応度に従い父母それぞれに由来する遺伝子の発現が調整される機構であり、社会脳の発達は遺伝子の刷り込みに影響を受けた表現型であるとされる。この仮説に従えば、社会脳は生物学的な性差の軸と刷り込みの効果の軸で規定されることになる。刷り込みの効果はその表現型の一つとして身振りにも影響し、舞踊やパフォーマンスの歴史にその効果の痕跡を見出すことができるのではないか。本発表では、対極的社会脳仮説をパフォーマンス研究へ展開できるか検討する。例として、サミュエル・ベケットの『クワッド』とワスラフ・ニジンスキーの舞踊を取り上げる予定である。

奥村大介(慶應義塾大学)「メスメリスムという文化」

 ドイツ生まれの医師メスメル(Frédéric-Antoine Mesmer, 1734-1815)が18世紀末に行なった動物磁気治療術(メスメリスム)(以下M)は、宇宙にあまねく拡がる不可視・不可量の流体をコントロールし、人体内部のこの流体の流れを整えることで、心身の疾患を治療するという医術である。今日では一種の催眠術と考えられるこの治療術は、18世紀末から19世紀前半にかけて欧州各地そして新大陸をも席巻する一大流行となった。医術としてのMは、フランス科学アカデミーなどの批判的調査を受けて疑問視する声が高まり、やがて衰退するが、その後も文学、哲学、政治思想、宗教思想など広範な文化領域に影響を与え続ける。本発表では、第一に、Mを形成した文化的背景、そしてMから生まれた18-20世紀の広範な文化をさまざまな表象形態のうちに探り、いわばMという文化の見取り図を描く。社会史のダーントン『パリのメスマー』(1968)、医学史のエランベルジェ『無意識の発見』(1970)、文学史のタタール『魔の眼に魅せられて』(1978)が、それぞれ行なった歴史記述を総合し、Mの文化的輪郭を明らかにする。第二に、Mをその輪郭の外に拡がる関連事象と比較する。焦点をあてるのは、メスメルと同時代に〈動物電気〉概念を提唱したイタリアの医師ガルヴァーニ(1737-98)、そしてメスメルが治療に使用した楽器アルモニカの発明者であり雷が電気であることを明らかにして避雷針を考案したことで知られる米国の科学者・政治家フランクリン(1706-90)、また動物磁気と動物電気の混交する電磁気説を重要な霊感源とした19世紀自然哲学とロマン派文学、そして20世紀の精神分析学者で独自の性エネルギー論を展開したライヒ(1897-1957)である。ここでは放電・共振・放射の表象を分析の中心とする。以上を受けて、最後に、近代における科学の再魔術化というべき現象の意味を検討する。

今村純子(慶應義塾大学)「生と死のリアリティ──映画『私のなかのあなた』をめぐって」

 私たちは、「なぜ生まれてきたのか?」、また「なぜ死んでいくのか?」という存在の根源的な問いに対する答えを持ちえない。そのような存在の神秘のうちに生きている。そして「己れに親しき者の死」は、受け止めるのがもっとも困難なものであろう。この苛酷な必然性に自らがいっさい関与しえないという事実に直面するとき、私たちはどのようにして自由でありうるのであろうか。
 映画『私のなかのあなた(My Sister's Keeper)』(2004年、米)は、長女の延命のために遺伝子操作によって誕生した主人公の次女が、ある日突然姉への腎髄移植を拒否する訴訟を起こすことを皮切りに、家族が長女の生とどう向き合うのか、また家族は長女の死をどう生きうるのかを問うた作品である。
 私たちの欲望には限りがない。そして問題は、このように無限へと向かう欲望が、すぐさま有限にうちに無限を求めるという倒錯に陥ることである。科学は本来この倒錯を回避し、必然性の認識を促すべきものであるはずである。だが技術への応用が第一義的に目指されるとき、科学がこの欲望の倒錯をどれほど促進してしまうのかは、今日私たちが日々痛感せざるをえないところであろう。
 本発表では、2時間の時間の流れのなかで、この映画の登場人物それぞれが、どのようにしてこの科学技術という魔物の呪縛を解かれ、必然性を必然性として認識し、そこにどのような自由がひらけうるのかを捉え直し、「己れに親しき者の死」を私たちはどう生きうるのか、また、生者と死者とのどのような協働がありうるのかを、あくまで映画という芸術の美が放つ強度において、少しくあきらかにしてみたい。