日時:2011年11月12日(土)10:00―12:00
会場:東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1
・調文明(東京大学)「アルヴィン・ラングドン・コバーンとヘンリー・ジェイムズ──写真の抽象化と金融都市ニューヨークの摩天楼」
・高村峰生(東京大学)「アメリカンモダニズムと触覚的「真実」──ローゼンフェルド、ウィリアムズ、スティーグリッツ」
・井上康彦(東京藝術大学)「ギンギラギンにさりげなく──アンディ・ウォーホルの銀」
司会:佐藤良明
調文明(東京大学)「アルヴィン・ラングドン・コバーンとヘンリー・ジェイムズ──写真の抽象化と金融都市ニューヨークの摩天楼」
抽象写真の始まりは、アメリカの写真家アルヴィン・ラングドン・コバーンが1916年に発表したヴォートグラフとされている。しかし、コバーンの抽象への関心はヴォートグラフ以前の、「オクトパス」(1912年)や「無数の窓がある建物」(1912年)といった摩天楼からの眺めを写した写真にも見てとることができる。コバーンが摩天楼に注目するきっかけのひとつに、1905年におけるアメリカの作家ヘンリー・ジェイムズとの出会いがあるように思われる。ジェイムズは1904年から1905年までのアメリカ滞在を記録した『アメリカン・シーン』のなかで、久しぶりに訪れた故郷ニューヨークの劇的な変容に狼狽しつつも、摩天楼が立ち並ぶ様に興奮を覚えたことを素直に告白している。それと同時に、彼はその背景に金融経済の発展があることを的確に読み取っていた。それは、摩天楼を「高額配当支払い主」と呼ぶことにも表われている。コバーンは、ジェイムズと出会った年に「ニューヨーク証券取引所」を撮影し、1910年代に摩天楼からの眺めを積極的に撮影した。これらの写真は、都市の抽象的なフォルムを強調した写真ということにとどまらず、その抽象的なフォルムを可視化させる摩天楼そのものが金融資本という抽象的なものによって生み出され支えられていることをほのめかしている。本発表では、1905年のジェイムズとの出会いにまで遡り、抽象化の実験のひとつとしての摩天楼の写真のあり方を考察したい。
高村峰生(東京大学)「アメリカンモダニズムと触覚的「真実」──ローゼンフェルド、ウィリアムズ、スティーグリッツ」
本発表の目的は、アルフレッド・スティーグリッツを中心とする芸術家サークルにおける「接触/触覚」の言説の重要性と役割を考察することである。1900年初頭から20年代にかけて、スティーグリッツのギャラリー「291」やCamera Workという雑誌のもとに集まった芸術家たちは、手法や表現媒体は異なりながらも、凡そ次のような考えを共有していた。すなわち、同時代に進行する社会や文化の「機械化」がアメリカ人の本性としての自然への感受性を損なっているということ、そしてアメリカの芸術は有機的で触覚的な「真実」の表現によって、そのような「機械化」に抵抗しなければならないということ。「接触/触覚」の言説は彼らの「有機的」、「始原的」、「霊性的」な芸術表現において重要な役割を果たし、20世紀初期のニューヨークにおけるアメリカ国家のイメージの形成に大きな寄与をした。
「接触/触覚」に関わる仕事を残したスティーグリッツ・サークルのメンバーは多数いるが、本発表では特にポール・ローゼンフェルドのPort of New York(1924)をはじめとする文芸批評、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズのユニークなアメリカ史であるIn The American Grain (1925)、スティーグリッツのジョージア・オキーフなどの女性の身体を写した写真に共通して現れる言説やイメージを検討し、1910年代後半から1920年代前半にかけてのスティーグリッツ・サークルにおける触覚的イメージと、彼らの芸術観・国家観・身体観の交錯する地点を考察する。
井上康彦(東京藝術大学)「ギンギラギンにさりげなく──アンディ・ウォーホルの銀」
アンディ・ウォーホルを説明する概説的な記述では、定番のように《キャンベルスープ缶》や《ブリロボックス》が取り上げられ、ボードリヤールやバルトをはじめとするポスト構造主義のシミュラークル論をもとに、ウォーホルを大量生産・消費文化をアートに導入した作家として解釈することになっている。他方、《マリリン》《ジャッキー》《自動車事故》《電気椅子》などを取り上げるものは「アメリカにおける死」をテーマに掲げ、ウォーホル作品に政治的な意味を読み込んでいくことになっている。いずれにしても作品を時代反映論的に読み解くのが通例だ。本発表では、銀というマテリアルに対するウォーホルの執着に注目することで、「ポップ・アーティスト」とは別の、作家性の強いウォーホル像を提示する。その際参照するのが、ハル・フォスターがウォーホル論“Death in America”(1996)で提示した「トラウマを受けた主体」とロジェ・カイヨワの擬態論における「自己放棄本能」である。ウォーホル作品においては「トラウマを受けた主体」の「自己放棄本能」が銀を媒介に擬態的に具現されるが、その銀は周りから際立つ銀ではなく、環境としての銀、基底や素材になる銀である。本発表では、そのことを作品と制作現場の写真から裏付ける。銀幕の銀、銀塩写真の銀、工業製品の銀、ギンギラギンにさりげない銀によってウォーホルのほとんどの作品が説明できることを示す。