日時:2010年11月13日(土) 9:30-12:00
会場:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1

・小澤京子(東京大学)「書物内の旅──C.-N. ルドゥーの建築書における空間配列と身体性」
・鈴木賢子(実践女子大学)「W・G・ゼーバルトにおける博物誌/自然史」
・石田圭子(東京藝術大学)「〈場所〉と記憶──記憶芸術(Gedächtniskunst)の場所をめぐって」
・香川檀(武蔵大学)「アーカイヴ・アートによる歴史的記憶の表象──ジークリット・ジグルドソン《静寂の前に》」

司会:田中純(東京大学)

小澤京子(東京大学)「書物内の旅──C.-N. ルドゥーの建築書における空間配列と身体性」
 書物は一つの時間芸術であり、そこで展開されるナラティヴはクロノロジカルな構造をもつ。しかし、ある種の書物はまた、空間芸術としての性質をも有している。
 発表者はこれまでの研究のなかで、C.-N.ルドゥーの建築書『芸術・慣習・法制の下に考察された建築』(1804年刊、以下『建築論』と略記)においては、イメージとテクストの連続体により擬似的な空間性が生じていること、「私」という一人称を主体とするナラティヴにより、リアルな運動性や身体感覚、臨場感が喚起されることを示してきた。本発表ではこの分析をさらに進め、ルドゥーの『建築論』で展開されている空間がいかなる性質のものであるか、また、「語り手」の身体性がいかにして担保されているのかを明らかにする。
 『建築論』の特色は、挿入された諸々の建築図面とナラティヴとの交差が、「旅行者」としての主人公の辿る旅程を示唆しているという点にある。「語り」が時間性と同時に空間性を有するという点で、ルドゥーのテクストは、異郷への現実の旅、あるいはユートピアへの空想上の旅を綴った旅行記の伝統とも通底している。ルドゥーの同時代人を挙げるなら、マルキ・ド・サドのテクストにも、擬似的な空間性と「移動し知覚する身体」とを見出すことができる。本発表では、このような諸例との比較参照も行う。
 ルドゥーの『建築論』は、異質な要素の「継ぎ接ぎ」であると同時に、図像とナラティヴのセリーにより、「建築の博物館、もしくは百科事典」としての空間的展開をも有していた。本発表の企図は、本書のかかる性質の分析を通して、そこでのイメージとナラティヴの関係の特性を炙りだすことにある。


鈴木賢子(実践女子大学)「W・G・ゼーバルトにおける博物誌/自然史」
 W. G. ゼーバルトの『土星の環――イギリス行脚』(1995)において、第二次世界大戦後のイギリス東海岸地方を旅するゼーバルトのナレーターが感応しているのは、往時の支配階級の抱いたような廃墟のポエジーではなく、大英帝国近代の暴力の爪痕であり、人も物も自然もゆっくりと朽ちて崩壊していく風景である。だが、「文明の没落」と「自然の崩壊」はゼーバルトにおいて、どのように連動させられているのだろうか。
 発表者は今回、ゼーバルトにおける「自然史」への擬態と逸脱という戦略について考察してみたい。ゼーバルト作品には、いかにも古色蒼然とした19世紀的な博物学の体裁で動植物の写真がコラージュされ、テクストの中では聞き慣れない動植物や鉱物の名前が図鑑を読み上げるように連呼される。しかし『土星の環』ではこの博物学的な態度も、ルネサンス的思考に属する17世紀の博物誌によって初めから二重化されているのである。
 発表では、19世紀の写真黎明期のイギリス人パイオニア、トルボットの写真と彼のダーウィン・ショック以前の自然観を参照し、トルボットの写真とテクストに結節する言説の歴史的編成について提示する。それを議論の触媒として、ゼーバルトが写真とテクストによって、20世紀末のイギリス東海岸地方の〈時間〉を、人間の側の「自律した歴史」の時間から離れた「自然の歴史」die Geschichte der Naturとして記述していることを示したい。


石田圭子(東京藝術大学)「〈場所〉と記憶──記憶芸術(Gedächtniskunst)の場所をめぐって」
 ベルリンの街中にはピーター・アイゼンマンの<ホロコースト記念碑>やミシャ・ウルマンの<からっぽの図書館>、クリスチャン・ボルタンスキーの<失われた家>といった、ナチス・ドイツと戦争という負の記憶を想起させる記憶芸術(Gedächtniskunst)の作品が散在している。本発表ではこうした芸術の性格について<場所>という視点から考えてみたい。
 この記憶芸術の<場所>について考えるために、まずアライダ・アスマンの記憶論、とくに「リコレクション」と「アナムネーシス」という概念に着目する。それを手がかりとして、記念碑、廃墟、ゲニウス・ロキの住まう場所といったいくつかの特殊な場所を順次とりあげ、それぞれの場所がどのような記憶を生み出しているのか考察する。その際、とくにゲニウス・ロキとベンヤミンの「身体空間」という概念の関わり、さらに『ナジャ』に描かれるパリの街とそこでのブルトンの試みなどに着目したい。
 それらを参照しつつ、記憶芸術の場所とは何か、それはどのような記憶を喚起しうるのかを明らかにしていきたい。


香川檀(武蔵大学)「アーカイヴ・アートによる歴史的記憶の表象──ジークリット・ジグルドソン《静寂の前に》」
 現代美術においてテクストや写真、モノ(オブジェ)などを連鎖的に並置していくアーカイヴ作品の重要性が注目されている。その一方、「歴史の終焉」と歴史的経験の喪失が取りざたされる思想状況を背景に、逆説的なかたちで1980年代以降、とくにドイツにおいて歴史的過去の記憶を美的経験として想起するアートが前景化されてきた。
 本発表は、これらふたつの動向の交差する地点に位置するドイツの歴史アーカイヴ型作品、ジークリット・ジグルドソン《静寂の前に》(1988-2009年)を取り上げ、その記憶表象の様態をアーカイヴ論の文脈のなかで検証する。この作品は、ハーゲン市の美術館内に常設された空間インスタレーションで、壁面いっぱいに書架に似た棚を200以上設け、骨董市などで蒐集した手紙や写真や公文書など、ナチ時代を中心として現代史に関係する個人的、社会的ドキュメントや作家自身の描画・オブジェなど3万点以上を収めたものである。これを、クリスチャン・ボルタンスキーの顔写真や個人名などを採集した作品と比較すると、後者が過去についてのミニマルな指標の列挙であるのに対して、前者は断片的かつ多様なナラティヴとイメージの集積であることが分かる。このような構造的特徴をもつジグルドソンのアーカイヴの意味作用を、ボルタンスキー作品との比較を中心に、19世紀の歴史アーカイヴや、ダダ・シュルレアリスムの反アーカイヴ・アートをも参照しつつ明らかにする。