2024年11月23日(土・祝)
16:30-18:00

  • 『アイヌ神謠集』第一話中の詩句「銀の滴降る降るまはりに」のしたたかさ/小池陽慈(放送大学)
  • 「これは暗号ではない」──メイヤスー/デリダの(非)暗号解読/髙多伊吹(東京大学)

司会:熊谷謙介(神奈川大学)


『アイヌ神謠集』第一話中の詩句「銀の滴降る降るまはりに」のしたたかさ/小池陽慈(放送大学)

 知里幸惠『アイヌ神謠集』第一話中の「銀の滴降る降るまはりに」という詩句は、従来はサケヘ(地の文とは意味的に連動しないリフレインの句)と考えられてきた。しかし、中川裕は、この詩句を「二次的なサケヘ」として通常のサケヘと弁別する(「口承文芸のメカニズム」)。かつ、日本語訳の「美し」さを求めてこの詩句の前景化を図った知里が、本来のサケヘを故意に省いたという可能性にも言及する(『改訂版 アイヌの物語世界』)。
 知里によるこの書き換えは、日本語訳の論理を優先してアイヌの物語を変形したという点で、『アイヌ神謠集』「序」で宣言した、アイヌの物語を後世へ継承せんとする知里自身の言葉に背反する。また、丸山隆司は同書の他の個所も挙げながら、知里による書き換えに、日本語を規範とすることを強いるコロニアルな権力の影響を読み取る(『〈アイヌ〉学の誕生』)。
 だが、留意すべきは、当該の詩句が「銀の滴」及び「降る降る」という、日本語の語彙や統語としての破格を含む点である。すなわちこの詩句は、アイヌ語にも日本語にも還元し得ぬ新たな詩的領域を創造するエクリチュールなのだ。これをウィンチェスターの説く〈「差別や圧力」への「応答」としての「アイヌの創造性」(シドル『アイヌ通史』「訳者解題」〉を表象するものと読むなら、そのしたたかな柔軟性は、『アイヌ神謠集』をめぐる牧歌的なステレオタイプを棄却することになるだろう。

「これは暗号ではない」──メイヤスー/デリダの(非)暗号解読/髙多伊吹(東京大学)

 カンタン・メイヤスー『数とセイレーン』(2011)は、マラルメの視覚詩「賽の一振り」をふたつの相反する水準において読解する──「これは暗号である」/「これは暗号ではない」。彼は詩を、一方でその単語の総数を数え上げることによって表れる707という数を鍵とする暗号(たとえばこの数は見開きのⅥ頁目の語の配置において視覚的に予告されている)として紐解きながら、他方で、詩中にただ一箇所、PEUT-ÊTREという形で表れるハイフンが語数を708へとずらすことでその解釈が破綻する地点を指し示してもいる。彼によれば、あるいはこの並立こそがマラルメによって仕掛けられた(非)暗号である。
 同じくマラルメを読むジャック・デリダ「二重の会」(1972)は、しかし、メイヤスーとは明らかに異なった態度を取っている。or、tr、skrといった綴字の部分に異様に拘泥するデリダの眼差しにあって、数え上げの単位としての語の地位はすでに危うい。彼にとって文字[script]に部分として組み込まれた暗号[crypte]とは、語が「コトバ」としての同一性を失って分割―変形可能な「モノ」として扱われる、語―物[mot-chose]の運動から生じるものだ(「Fors」(1976))。この物表象化の過程は、ミシェル・フーコーが「これはパイプではない」(1973)で描いた形態的記号と言語的記号の融解の場面へと切り返すことが出来るだろう。本発表ではフーコーを補助線としつつ、メイヤスー/デリダの(非)暗号解読、その巨視的/微視的戦略のあいだに引かれた切断線の内実を明らかにする。