2024年11月23日(土・祝)
13:00-15:00
- アニタ・エクバーグを「キャンプ」で読む──フェデリコ・フェリーニ作品を中心に/神田育也(京都大学)
- コメディ映画作品における多層的存在としての脂肪/宮内沙也佳(立命館大学)
- E・K・セジウィックの否定性、肛門の(非)存在論──修復的転回以降の『リング』」/長尾優希(東京藝術大学)
司会:久保豊(金沢大学)
アニタ・エクバーグを「キャンプ」で読む──フェデリコ・フェリーニ作品を中心に/神田育也(京都大学)
アニタ・エクバーグ(1931-2015)はスウェーデン出身の映画女優であり、1950年代にハリウッドで活動をスタートさせた後、1960年代以降はイタリア映画を主戦場とした。イタリア進出のきっかけとなった作品がフェデリコ・フェリーニの『甘い生活』である。この映画でエクバーグは持ち前のセックス ・アピールを活用し、メエ・ウェスト、マリリン・モンロー、エヴァ・ガードナーらハリウッド女優をパロディ化する形で役「シルヴィア・ランク」を練り上げた。
ウェスト、モンロー、ガードナー、エクバーグ。これら女優に共通するのは、女性性を人工的なまでに強調した「キャンプ」を誘発する点である。実際、スーザン・ソンタグによる記念碑的論考「《キャンプ》についてのノート」にはエクバーグに関する言及がある。本発表では、エクバーグが出演したフェリーニ作品を中心に、彼女のキャンピーな側面を考察する。ファビオ・クレトによるキャンプ概念の整理を参照しつつ、エクバーグの実践を、いくつかの理論的枠組み-ソンタグの「意図的/素朴的」キャンプの区別、アンドリュー・ロスの「キャンプの使用」、エスター・ニュートンのキャンプとドラァグの違い-から論じる。さらに上で得た洞察を、ハリウッドに対するイタリア映画の距離化、フェリーニのメタ映画的特徴と結びつけ、エクバーグの映画史的・美学的可能性を模索する。
コメディ映画作品における多層的存在としての脂肪/宮内沙也佳(立命館大学)
本発表は、ハリウッド映画のコメディ作品における超肥満表象を物質性の観点から分析する。超肥満は通常、圧倒的な重量感や物質的な存在感を伴うが、コメディ映画ではしばしば風船のように軽々しく描かれる。そのような描写では、肥満が現実の物理的な制約や不自由さを無視し、誇張された動きを見せることで、視覚的なユーモアやコミカルな効果が強調される。たとえば『ナッティ・プロフェッサー』(1996)に登場する肥満キャラクターは、巨体にもかかわらず軽快に動き、超肥満の重量感が排除された身体として描かれている。
アメリカを中心に蓄積されてきたFat Studiesは肥満の医学言説を批判する立場をとり、肥満のスティグマ解消を目的に発展してきた。しかし、そこでは主に肥満表象のアイデンティティが議論の俎上に上げられてきた。そこで本発表では、身体の全体やアイデンティティを指す「肥満」と身体の部分や物質を指す「脂肪」とに区別し、後者に比重を置いて議論を進める。これまで肥満表象研究では、脂肪は男女や社会階級、年齢をも越境する機能を果たすと指摘されている(Gilman 2004; Richardson 2012; Plotz 2020)。これらの先行研究に基づき、過剰な脂肪をもつ超肥満表象が重量感を欠如したものとして描かれることを追求する。
超肥満表象の重量感に着目し、過剰な脂肪が人間/非人間の境界を越境する多層的存在として機能することを明らかにすることが本発表の目的である。
E・K・セジウィックの否定性、肛門の(非)存在論──修復的転回以降の『リング』」/長尾優希(東京藝術大学)
クィア理論家イヴ・コソフスキー・セジウィックのエッセイ「パラノイア的読解と修復的読解」(2003年)は従来の読解のあり方に疑義を呈し、広く人文学で「修復的」、「記述的」、「ポスト解釈学的」、「ポストクリティーク的」転回と呼ばれる契機となった。この論考は、隠された真理を暴くという従来の「パラノイア的」な批評に代わって、マイノリティの主体が生存しうるような全体性をテクストから組み上げる「修復」を呼びかけると同時に、その全体性が破砕する否定性を見いだすことができる。その後の反応はしかし、「修復」を称揚する立場か「パラノイア」を擁護する立場に二分され、セジウィックの否定性が十分に議論されてきたとは言いがたい。
本発表はまず、肛門愛を否定性の中心に見たD. A.ミラーやリー・エーデルマンをはじめとするクィア理論の系譜を、セジウィックの論じた肛門愛と比較する。これを踏まえて、浅川玲子と高山竜司という2人の主人公が「パラノイア的」・「修復的」いずれの特徴も併せ持つ映画、中田秀夫監督による『リング』(1998年)に目を転じ、井戸という「深層」に沈む山村貞子の遺体を掘り起こすシークエンスを分析することで、セジウィックの提示した二つの批評のモードがいずれも否定性を昇華することで成立していることを指摘する。そのうえで、「呪いのビデオ」を見た人間を写真に撮ると顔貌が歪むという『リング』の別な要素に注意を移し、「パラノイア的」でも「修復的」でもない第三の批評の倫理が、「パラノイア的読解と修復的読解」での「先回り」を拒否するという否定性の身振りに示されていたことを明らかにする。