2023年11月12日(日)
13:00-15:00
- 樹木に同一化するとき——クロード・ロランの「ロクス・アモエヌス」をめぐって/村山雄紀(早稲田大学)
- 出版物としての浮世絵から見る現代メディアの可能性——江戸後期の浮世絵と『週刊少年ジャンプ』の消費状況を比較して/髙橋百華(名古屋大学)
- 長島有里枝「Self-Portrait」シリーズについての研究——図像分析を用いて/西川瞭(滋賀県立大学)
司会:松谷容作(追手門学院大学)
樹木に同一化するとき——クロード・ロランの「ロクス・アモエヌス」をめぐって/村山雄紀(早稲田大学)
本発表は、クロード・ロランの風景画を、ラテン語の「心地よき場所(locus amoenus)」に相当する概念である「ロクス・アモエヌス」の観点から分析する。「ロクス・アモエヌス」とは、ウェリギリウスの『農耕詩』に描かれているような、都市の実務や喧騒から離れた長閑な牧歌的風景のことである。
小針由紀隆はクロードの風景画が「ロクス・アモエヌス」と結びつく理由について、木々、樹陰、牧人、羊飼い、笛吹き、小川、鳥の鳴き声、山羊の群れといった、さまざまな要素を取りあげながら論じている。本発表は小針の研究に基づきつつも、とくに樹木の形象に着目することで、クロードの風景画が「ロクス・アモエヌス」であることの理由について理論的に考察したい。
クロードが描く情景には、人物による行為も、波乱に満ちた情念も、ペリペテイア(筋の急転)も、悲劇的な展開もなく、アリストテレス的カタルシスのモデルに従えば、観者を巻き込み感動させる要素は存在しない。それにもかかわらず、観者がクロードの風景画に魅了されるのは、観者は人物ではなく、樹木に同一化するからである。オウィディウス『変身物語』のダフネの樹木への変身が物語るように、太古より、樹木は擬人化されてきたが、本発表は、観者が樹木に同一化するプロセスを「瞬間」の時間性の観点から考察する。クロードの風景画が「ロクス・アモエヌス」として感受されるときのメカニズムを、「瞬間」の時間性に求めることにより、描かれた樹木が観者に及ぼす効果を明らかにすることが本発表の目的である。
出版物としての浮世絵から見る現代メディアの可能性——江戸後期の浮世絵と『週刊少年ジャンプ』の消費状況を比較して
これまでの浮世絵研究は美術史によるものが中心であり、出版史/メディア史による研究は数が少ない。高橋誠一郎(1938)に端を発し、大久保純一(2013)、堀じゅん子(2016)等、当時の流通・消費状況の実態把握は近年盛んになりつつあるが、いずれも流通・消費状況が浮世絵の画風や主題にどのような影響を及ぼしたのかを明らかにすることを主目的としている。そのため、そうした研究が現代のメディアの流通・消費状況に対していかなる意義をもつかは明確でない。
そこで本研究は、現代の出版物の流通・消費状況という光のもとで、浮世絵の出版物としての側面を浮かび上がらせ、そこから得られる新たな可能性を示唆することを目指す。ここで注目するのが現代の出版物の中でも大衆に浸透している「マンガ雑誌」の流通・消費状況である。浮世絵とマンガはこれまでも比較されてきたが、流通・消費状況についてはまだ行われていない。発表では白戸満喜子(2010)の先行研究等をもとに甘泉堂や伊場仙をはじめとする江戸後期の版元から出版された浮世絵と『週刊少年ジャンプ』(集英社)を例に比較を行う。
この比較を通し、浮世絵とマンガには生産工程や価格、読者層等出版物としての在り方に多くの類似点があることを明らかにするだけでなく、例えば絵として楽しまれた浮世絵が後に屏風に張り交ぜられたり、マンガの一コマがそのまま洋服に印刷されたりと、当初の役目を終えた商品が再び異なる役割を果たす点でも類似していることに触れる。それにより、現代のメディアにおいても、役目を終えたイメージのその後に着目する重要性を示唆することができると考える。
長島有里枝「Self-Portrait」シリーズについての研究——図像分析を用いて/西川瞭(滋賀県立大学)
長島有里枝の「Self-Portrait」シリーズ(1993年)は、長島が自身とその家族3人を、アパートの室内を背景にヌードで撮影した9枚組の写真シリーズである。長島は本作発表後、インタビューや著書を通じ制作当時抱えていた家族との軋轢や社会が要請する女性像への違和感を語っている。こういった主張は顧みられず、また詳細な図像分析も行われないまま、若い女性が撮影した「女の子写真」という偏見のもと、また時にセクシュアルなイメージとして本作は解釈された。本研究では図像分析を行うことで制作意図を明確にすることを試みた。
本作には、異常なまでに親密に両親と裸で身を寄せ合う写真や、弟と裸になって布団に寝そべる、姉弟の関係を性的関係を持った男女関係のように見せる写真と共に、家族四人が記念写真のような配置をとり画面中央に整列する写真が示される。機能不全に陥った家族がそれでも「家族」として同じ空間で過ごさなければならないイメージとして観ることができるこの写真の中で裸体は、親密さの象徴としても性的関係の暗示としても機能しない。写真から親密さやセクシャルさを読み取る鑑賞者の視線は裏切られることとなる。
長島は、自身を束縛していた家族観や女性観を写真を通して客観視し、相対化したと言えるだろう。シリーズを通してカメラ、すなわち鑑賞者に向けられた長島の視線は、写真に親密さやセクシュアルさを読み取ろうとする鑑賞者を嘲笑っているかのようにも見える。