2023年11月12日(日)
10:00-12:00
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表象されるヴァンパイア——ダーシー『黒人ヴァンパイア』とアダプテーション/森口大地(関西学院大学)
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異形の詩学——松浦理英子『葬儀の日』をめぐって/今村純子(立教大学)
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糾える縄——警察小説における冤罪/熊木淳(獨協大学)
司会:西原志保(東北大学)
表象されるヴァンパイア——ダーシー『黒人ヴァンパイア』とアダプテーション/森口大地(関西学院大学)
ユーライア・D・ダーシーの『黒人ヴァンパイア(The Black Vampyre)』(1819)は、当時流行したジョン・ポリドリの『ヴァンパイア』のパロディとして書かれた。ハイチ革命を下敷きとした本作が、黒人やムラートへの同時代の恐怖をヴァンパイアに仮託していることは既に指摘されている(庄司宏子 2018)。ただし、庄司は黒人・ムラート表象を分析するのみで、ヴァンパイア自体の表象は詳論していない。
表象(representation)とは、何かを代理する=表す(stand for)ことだけでなく、代表(representation)=他者に代わって行為するという政治的意味合いも含む。本発表では、『黒人ヴァンパイア』がポリドリ作のパロディであることの意味や、作中でヴァンパイアが演説する=他者を代表することの意味をはじめとする様々な動的なヴァンパイア表象を分析する。
ヴァンパイア表象の問題は、リンダ・ハッチオンなどのアダプテーション概念を介して、最終的には現実をアダプトするという問題まで射程に収めうる。アダプテーションとは「原作」を別のメディアだけでなく、別の文脈にも適合させる文化的行為だからである。もともと〈周縁〉にいたヴァンパイアは、神聖ローマ帝国の調査報告書を介して西洋という〈中心〉に輸入された後に新聞メディアで広まり、知識人たちの議論で言説空間が形成されたので、現実とテクストの合間に位置する。以前、発表者は本作のヴァンパイアが示す貴族性や搾取の問題について発表したが、本発表はこれと異なり、作品間だけでなくテクスト上に現実をアダプトする行為において、ヴァンパイアがどう表象されるかもまた考察する。
異形の詩学——松浦理英子『葬儀の日』をめぐって/今村純子(立教大学)
松浦理英子(1958-)のデビュー作『葬儀の日』(1978)は、『ナチュラル・ウーマン』(1988)にいたるまでの「異形の系譜」の原石となる短篇小説である。今日では禁忌とされる言葉を多用しつつ、非日常的な不気味さ・異様さを背景に、死や老いといったものに深く関わりつつそれらを嘲笑する仕事に携わる者たちの意識、あるいはまた、わたしたちが通常「なかったこと」にしがちな、自らのうちに湧き起こる邪悪さや醜悪さを孕むネガティヴな感情を、鮮烈な光のもとに晒してみせる。
かのプラトンは社会を「巨獣」に譬え、この「巨獣」の好みが善悪を決定するという。松浦が描く人と人との関係性/方向性をめぐるさまざまな問題系は、この「巨獣」から「異形なるもの」とみなされた人物たちがその感情を押し潰され、捻じ曲げられながらも、いかにして自らの個性と資質を失わずに自らの生を創造することができるのかを求め、そしてその落魄する様を描き出している。その極北に『葬儀の日』は位置している。
シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909-43)は、ギリシア悲劇やプラトンの作品から強烈なインスピレーションを得て、本来ならば交わらないはずの平行線は「無限遠で」交わるという非ユークリッド的直観をその詩学の支柱に据えている。本発表では、シモーヌ・ヴェイユ詩学の視座に立ち、松浦理英子初期作品全般を念頭に置きつつ、『葬儀の日』に焦点を当て、「異形の詩学」と呼ぶべきものを浮き彫りにしてみたい。
糾える縄——警察小説における冤罪/熊木淳(獨協大学)
本発表の目的は、日本の小説、とりわけ警察小説において冤罪がいかに描かれてきたかを明らかにすることである。
冤罪を描く主要なジャンルである法廷もの、リーガルミステリーとは別に、日本においては2000年代以降、多くの警察小説がこのテーマを扱うことになる。それまでは冤罪を描く物語は、例えば松本清張「不運な名前」や西村寿行『君よ憤怒の河を渉れ』など冤罪を個人があらがえない運命として捉えるものが多かった。換言すれば、冤罪にいたる捜査、司法の問題点などについてはほとんど描かれてこなかった。
だが2000年代以降、冤罪は捜査当局の捜査や官僚的組織のあり方に批判的な視線を向ける有効な手段として機能することになる。その理由として、1990年代後半から警察組織の表象に大きな変化があったのではないか。それまで警察とは単に事件を解決する機関に過ぎなかった。だが横山秀夫以降警察組織は厚みを持ち、場合によっては妨害や隠蔽を行うようになる。こういった背景のもとで、冤罪とは捜査員と警察が対峙する重要な要因となるのだ。朔立木は『死亡推定時刻』(2004年)の中で、冤罪を「糾える縄」にたとえたが、ここでこの語の読み替えを行っている。冤罪は個人の意思によるのではなく、成員たちの悪意や善意さえも含めた組織の行為の結果だとするのだ。かつて松本や西村にとって冤罪はある意味で「塞翁が馬」といったものだった。だとすればこの「糾える縄」の読み替えは日本における冤罪の表象の変化を表しているのではないか。