日時:2007年7月1日(日) 9:30 - 11:30
会場:東京大学駒場キャンパス18号館ホール
・朱光潜と李沢厚の論争/橋本悟(東京大学)
・戦後台湾におけるモダニズム美術史の構築―1980年前後の李仲生とある美学者の論争をめぐって
/呉孟晋(東京大学)
・1980年代中国「美学熱(ブーム)」の位相―李沢厚、劉暁波、劉小楓の論争を中心に
/秋山珠子(中央大学)
【コメンテイター】中島隆博(東京大学)
【司会】橋本悟(東京大学)
近代中国美学は、蔡元培による「美育を以て宗教に代える」(1917年)という主張にはじまり、美や芸術の持つ政治-倫理的機能を繰り返し議論してきた。それは、クローチェ美学の影響の下に論理的知に先立つ直感的知の領域を画定しようとした、近代中国を代表する美学者朱光潜(1897-1986年)においても、「人生の芸術化」というテーゼに集約される形で繰り返し現れていた。そしてこの問題は、民国期、日中戦争・国共内戦期での模索を経て、共産革命により中国大陸と台湾に分裂した20世紀後半において特に捻れた形で継承されていった。例えば、朱光潜美学は李沢厚らによる全面的な批判にさらされたし、60年代の反共政体の台湾では、「自由中国」の文化的象徴たるモダニズム美術がピカソやグリーンバーグの左傾化により伝統美学と交配した変形的なモダニズム理論が登場している。
このような歴史を振り返ると、20世紀中国において、美学は一方で知識人が政治の領域から距離を取ることを可能にしながら、他方で人々の感性に影響を与え、それを組織することで特に国民国家という近代的な共同体の基礎を構築すべく、社会においてまさに政治的に機能することが期待されるという両義的な働きをしてきたことが理解できる。このパネルでは、20世紀中国におけるこの両義的な「美と政治」の問題を巡る実践と闘争について、美学・思想・美術史の言説の分析のみならず、具体的な芸術作品・美術運動・美術批評の分析という両側面から考察することを期したい。それにより、文学作品の寓意的分析に偏重したこれまでの近現代中国文化・芸術研究の動向に対し、美学や芸術が社会の成立に果たす機能という観点から、より批評的な分析を試みたい。(パネル構成:橋本悟)
朱光潜と李沢厚の論争/橋本悟(東京大学)
1950年代末から60年代初めにかけて、中国では「美学大論争」が巻き起こった。そこでは、1933年に欧州留学から帰国して以来近代中国美学を代表してきた朱光潜が、当時中国においてマルクス主義美学の設立を主張し始めた李沢厚や蔡儀らによる批判を受けて自己批判を行いながらも、同時に彼らの美学理論に対する再批判を行うという論争が見られた。本発表では、そこでも特に朱光潜と李沢厚の間の論争に着目し、朱光潜美学を「唯心論」とする批判とそれに対する朱の応答を、単なるイデオロギー対立として捉えるのではなく、そこでどのような美学的・哲学的問題が争点となっていたのかを明らかにしながら、この「美学大論争」を通して近代中国美学がどのような屈折を被ったのかを考察することを目的とする。というのも、李沢厚はその後の改革開放期の思想に先鞭を付けたばかりでなく、現代中国における美学教育の理論的基礎を与えるなど最も影響力を持つ美学者として評価されているものの、そうした流れが1949年以前の美学とのどのような関係性に起源を持っているのかはいまだ十分に議論されていないからである。そして本発表では、こうした論点を単に20世紀中国の文脈内部で議論するだけでなく、朱光潜が影響を受けたクローチェ美学、またそのクローチェとマルクスとの関係というヨーロッパの文脈と対照させることによって考察したい。
戦後台湾におけるモダニズム美術史の構築―1980年前後の李仲生とある美学者の論争をめぐって
/呉孟晋(東京大学)
1979年末から翌80年初めにかけて、台湾の有力紙『民生報』上でアヴァンギャルド美術をめぐる奇妙な論争が展開された。1930年代に東京で活動した外省籍の抽象画家・李仲生が、自らのモダニズム絵画論に疑義を呈した台湾大学の美学教授・劉文潭に対して美術用語の辞書的定義を羅列して回答したこの論争は、かつて台湾美術界を牽引していたロートル芸術家のパフォーマンスとしてあまり注意を惹いていない。しかし、シュルレアリスムや抽象表現主義のなかに超越的な意思伝達の手段である禅の精神(李のことばでは「心眼」)を説く李の見解は、中国美術の復権という近代国民国家の文化構築に不可欠の使命を帯びていた。これに対して劉はアカデミックな見地から、「自由中国」という分裂国家として冷戦構造のなかで欧米文化を受容せざるを得なかった台湾のアポリアを指摘したのである。本発表は、この論争を手がかりにして、戦後台湾のモダニズム理解を代表する李仲生による美術史のエクリチュールを明らかにしたい。具体的には「心眼」のモダニズムに到る前提として自然と写実に対する李仲生の認識を概観したうえで、後期印象派からシュルレアリスムに到る20世紀前半のさまざまなイズムの系譜にみえる李の批評意識を検証する。そのなかで、李がモダニズム美術史記述の参照軸としたクレメント・グリーンバーグのフォルマリズム批評からの「ずれ」に留意したい。
1980年代中国「美学熱(ブーム)」の位相―李沢厚、劉暁波、劉小楓の論争を中心に
/秋山珠子(中央大学)
1980年代中国「美学熱(ブーム)」は、文革終結直後の、国家イデオロギーの知識社会への政治的統制力が相対的に弛んだ1979年に出現し、知識人の政治参与がピークを迎えた1980年代末に収束した。本発表は、1980年代の思想界をリードした李沢厚(1930-)と、彼に対する主要な二人の批判者、劉暁波(1955-)および劉小楓(1956-)の、美と自由をめぐる議論を手がかりに従来の中国研究が十分注目してこなかった美学熱の位相を検証するものである。
文革終結直後、美学熱の先導者であった李沢厚が、カント美学批判の形を借りて提起したのは、いかに権力の恣意を抑制し、個人の「自由」の空間を生起させるかという命題であった。カントとは対照的に、李沢厚は美を自然の強制力および有用性の原則に委ね、欲求者としての人間を肯定し、個体の「実践」を歴史の中に「積澱(堆積)」させる「文化心理構造」説を提起した。
対して劉暁波は、美は「衝突」の中に現れるとし、1980年代中期から高まった社会のモビリティを背景に、「行為」の自由を提唱していく。劉暁波において行為は自由であろうとすれば、動機付けからも意図された目標からも自由でなければならず、その固有の「現れ」、すなわち多数の個から成る観客に見られ、吟味されることを必要とする。しかし有用性原則に支配され、文化的一体性を強調する李沢厚の「文化心理構造」においては、「行為」が追求すべき卓越性は逸脱として排除される。
対して、劉小楓は「思考」の自由の問題を提起する。伝統を肯定し、儒教規範の内面化を主張する李沢厚の「文化心理構造」において、個人の倫理は、近代化を旨とする国家の倫理に従属する。キリスト教神学に接近した劉小楓は、個人のディスクールを、国家の倫理に所属し得ないもの、すなわち内的亡命者の言葉として語った。劉小楓のディスクールは、みずからに亡命を強いる契機―政治の過剰―を不断に批判し、「思考」の領域を「政治」の領域から分かとうとするものであった。