日時:2006年11月19日(日) 13:30-16:10
会場:東京外国語大学 府中キャンパス214教室
*発表はそれぞれ40分(質疑応答含む)です。
・呉孟晋(東京大学大学院) 中国の“ローカルカラー”とシュルレアリズム:李仲生による1930年代東京でのシュルレアリスム絵画をめぐって
・小田透(東京大学大学院) 世紀転換期におけるアナキズム的なものの想像力の射程:エマ・ゴールドマンの軌跡
・串田純一(東京大学大学院) 気分というこの深い淵:ハイデガーに沿って
・鯖江秀樹(京都大学大学院) イタリア・ファシズムにおける文化政策のアポリア:ジョゼッペ・ボッタイと1920年代末の芸術論争
【司会】中島隆博(東京大学)
呉孟晋(東京大学大学院)
中国の“ローカルカラー”とシュルレアリスム:李仲生による1930年代東京での絵画作品をめぐって
本報告の狙いは、中国・広東出身で1949年に台湾に移った李仲生(1912-1984)が1930年代の東京で制作したシュルレアリスム絵画を手がかりに、20世紀中国でのモダニズム絵画運動の再検討を目指すことにある。李仲生は渡台直後から数年間、台湾で精力的に前衛的な絵画を提唱しており、誤解を恐れずに喩えるならば、岡本太郎ばりの大衆向けパフォーマンス精神と具体美術協会で若手美術家を統率した吉原治良の指導力をあわせもった画家であった。
これまでの台湾での李仲生研究は後年の抽象表現主義的な作品への考察が中心であるが、李の芸術観をたどるうえで30年代の作品群は現存しないものの不可避の命題である。報告者は、まず、当時の雑誌記事や写真図版などから李のシュルレアリスム理解のなかに、日本で初めてシュルレアリスム絵画を紹介した美術評論家・外山卯三郎の影響を指摘する。そして、東京で師事した藤田嗣治や東郷青児、阿部金剛ら二科会に終結した画家たちの作品と李本人の後期現存作品への分析をもとに、李のシュルレアリスム作品はブルトンの説くそれではなく、ドイツの新表現主義に連なる魔術的リアリズムを継承したものであったことを示したい。
李仲生は本来コスモポリタンな性格をもつシュルレアリスムに中国の独自性を主張していた。こうした意図的な「誤読」がどのように近現代中国の美術運動を牽引する原動力となったのか、その一事例を明らかにしたい。
小田透(東京大学大学院)
世紀転換期におけるアナキズム的なものの想像力の射程:エマ・ゴールドマンの軌跡
19世紀末、西洋社会は転換期にあった。近代国家システムが構築され、市場経済が世を席巻しつつあり、退化論などの終末論が流行していた。しかしその裏では、袋小路へ向かう社会を変革しようとする思想や運動が渦巻いていた。そのひとつにアナキズムを挙げることができよう。本発表ではロシアに生まれ、移民として渡米し、アメリカでアナキストとして自己形成を果たしたエマ・ゴールドマン(1869-1940)の歩みを範例的に読み解き、世紀末を俯瞰するためのパースペクティヴの提示を試みる。
まずは当時におけるアナキズムの射程を多角的に捉える必要がある。世紀末アナキズムは暗殺テロリズムからの転換であり、見境のない暴力性への反省であった。だがそれは自画像であり、国家の描く肖像画はむしろ社会における敵対異分子というイメージであった。
しかしアナキズムの磁場に引きこまれた言説は政治経済的なものをはみ出し、もっと包括的な文化的領域へ拡がっていた。いかなる社会像を思い描くかの想像力の問題が争点だったのである。アナキズムを基点としてそのようなパースペクティヴを想定するならば、世紀末におけるユートピア思想やコミュニズム的なものは複数的な可能性だったのであり、そこではオルタナティヴな可能性への希求が共有されていたことが明らかになるだろう。世紀末を絶望と否定性に横切られた希望と肯定性の時代として語ることが可能になるはずである。
串田純一(東京大学大学院)
気分というこの深い淵:ハイデガーに沿って
私たち全てにとって極めて身近で重要であるにもかかわらず、いわゆる学問的方法の適用が著しく遅れている現象として、感情、気分、情動などと呼ばれる一群の事象領域がある(いま仮にこれを感・気・情と総称しておく)。ハイデガーは既に『存在と時間』において、了解・語りと並ぶ現存在の根本規定の一つとして「情態性(Befindlichkeit)」を取り出しており、これは彼の哲学の革新性の一端を示すものであるにもかかわらず、従来十分な注意を払われてきたとは言い難い。この問題が最も大規模に扱われるのは1929年度冬学期の講義『形而上学の根本諸概念』であるが、そこでハイデガーは、感・気・情を何らかの理論や体系によって記述・説明しようとするのではなく、そもそも哲学は一つの根本気分において生起するものであり、第一に必要なのは、我々の根本気分を呼び覚ますことだという。そして彼によると、その我々の哲学することの根本気分とは「深い退屈」である。本発表では、このハイデガーの議論を逐次追って紹介すると共に、それが最終的に或る先鋭なアポリアへと行き着いてしまうことを示す。ハイデガーのいわゆる「転回」はこの難局からの撤退としても解釈できるのであるが、私たちはむしろこの困難に粘り強く留まり、感・気・情を学問的に取り扱う方法と環境の整備に努めるべきではないのか、と主張してみたい。
鯖江秀樹(京都大学大学院)
イタリア・ファシズムにおける文化政策のアポリア:ジョゼッペ・ボッタイと1920年代末の芸術論争
近年、プロパガンダや抑圧、大衆の同意獲得といった用語では捉えきれない、イタリア・ファシズム文化の多様性が指摘されている。しかしそれは、傾向の異なる芸術・思想の潮流の折衷として形成されたのではなく、その時々の逼迫した状況で下された決断の集積あるいはその帰結として成立している。ジュゼッペ・ボッタイ(1895-1959)は、この決断に貢献し、全体主義国家における芸術の重要性を擁護した体制側の為政者である。彼が『クリティカ・ファシスタ』誌上で展開した文化論は、以下の二つの問題点に貫かれている。第一に、ロマン主義以降の近代芸術が伴う「悪趣味な顕れ」(断片趣味、非人間化、デカダンスなど)と、「生の永続的な流れ」である古典的伝統とをいかに共存させるか。第二に、政治と平行関係にある芸術をいかに活動状態(in azione)にとどめおくか、という二点である。こうした矛盾を孕むボッタイの文化構想は、当時の芸術・文化の顕れに大きく作用している。
発表者は、ボッタイ主導の芸術論争が激しさを増す一九二七年から二九年に考察時期を絞り、彼の文化構想とローマを中心とする芸術環境との複雑な絡み合いを分析する。ただし合理主義建築やノヴェチェント派の作品分析ではなく、伝統や古典的なものが芸術論争の中でいかに解釈されたかという美学的問題に力点を置いて報告する。従来とは別の切り口からイタリア・ファシズム文化の多元性を提示し、その意義を再検討することが今回の発表の目的である。