日時:2006年11月19日(日) 10:30-12:30
会場:東京外国語大学 府中キャンパス214教室

*発表はそれぞれ40分(質疑応答含む)です。

【司会】小林康夫(東京大学)
・石岡良治(東京大学大学院) ジル・ドゥルーズの芸術論における「プラン」概念について
・國分功一郎(東京大学21世紀COEプログラム「共生のための国際哲学交流センター」研究拠点形成特任研究員)論述の二つの体制:デカルトとスピノザ
・星野太(東京大学大学院) 「表象」への懐疑:ラランド『哲学辞典』とベルクソン

石岡良治(東京大学大学院)
ジル・ドゥルーズの芸術論における「プラン」概念について

ジル・ドゥルーズにとって芸術は、科学と共に、哲学的思考に関わる重要な活動であり、独自の位置付けがなされている。フェリックス・ガタリとの共著『哲学とは何か』によれば、これら諸活動はそれぞれの「平面」を形成する。哲学の「内在平面」、科学の「準拠平面」に対して、芸術は「合成=創作平面(plan de composition)」に関わっており、芸術作品はそこで、音や色彩、言葉といった素材を用いて、被知覚態(percept)や変様態 (affect)からなる感覚のブロックを打ち立てる。

だが他方で、ドゥルーズの芸術論において「平面=プラン(plan)」は、以上のような共通規定のみならず、具体的な規定を有している。その興味深い事例として、『シネマ:運動=イメージ』における「シークエンス・ショット」をめぐる議論が挙げられよう。ここでドゥルーズは映画における「被写体深度」の問題を論じつつ、ハインリヒ・ヴェルフリンの絵画論における「平面性と深奥性」の分析を参照している。

このような絵画論の映画への適用は、フランス語における「プラン」が映画の「ショット」をも意味することに由来しており、一見すると恣意的な印象を与えるものとなっている。だが本発表では、むしろ「プラン」概念にみられるような様々なレベルの議論の交錯こそが、ドゥルーズにおける芸術と思考の関係の規定にとって積極的な重要性を持つことを示したい。


國分功一郎(東京大学21世紀COE「共生のための国際哲学交流センター」研究拠点形成特任研究員)
論述の二つの体制:デカルトとスピノザ

デカルトの『方法序説』とスピノザの『知性改善論』はどちらも十七世紀を代表する方法論であることから比較されることが多い。内容も驚くほどに一致する。『方法序説』は著者の修業時代の経験から語り起こされているが、『知性改善論』の冒頭に書かれているのも著者の経験である。その後で真理探究の決意を語るところ、真理発見までの暫定的生活規則を立てるところも同じだ。

だが、興味深いのは、一致の後に訪れる不一致である。デカルトは、決意を述べた後、自らが行った真理の発見の瞬間を語る。ところが、スピノザは、決意を述べた後、いつまでたっても真理の発見の瞬間を語らない。それをはぐらかす表現が現れ、なし崩しで議論が続く。

デカルトはかつて現前(present)した探求なり真理なりを、著作に再=現前(re-present)しているのであり、その意味で、『方法序説』の論述の体制を、表象(representation)の体制と呼ぶことができる。対し、スピノザはおそらく真理を表象の対象と見なすのを拒むが故に、真理の発見の瞬間について語らない。スピノザは、真理が著作の中に生成し、現前することを目論んでいるのであって、その意味で、彼の目指す論述の体制を、現前(presentation)の体制と呼ぶことができる。

本発表は、この仮説をもとにして真理と表象の関係を論じるとともに、論述の体制というテーマを立てることの意味について考える。


星野太(東京大学大学院)
「表象」への懐疑:ラランド『哲学辞典』とベルクソ

フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859‐1941)は、『フランス哲学会誌』に掲載された1901年の会議録において、フランス語における哲学用語としての「表象」の曖昧さを指摘している。このベルクソンの発言によれば、当時の「表象」(representation)という言葉はしばしば「精神にはじめて呈示された知的対象を指すもの」としても用いられていた。この事実は、歴史的に見ればヴォルフやライプニッツがラテン語のperceptioのドイツ語訳として「表象」(Vorstellung)という語を当てたことの影響であると考えることができる。だがベルクソンはまさにここで、そうした曖昧さを払拭し、「純粋かつ端的に精神に対して呈示されたあらゆるものを一般的な仕方で指し示すために」、心理学の用語である「presentationという語を導入する」必要性を強調する。ここには、「現前(プレザンタシオン)」に対して「表象=再現前(ルプレザンタシオン)」を下位に置く思考の萌芽を見ることができるだろう。ただし一方で、ベルクソンは「表象」という言葉における「re」という接頭辞が、元来「複製的な」価値を持っていたという考え方には懐疑的だった。本発表では、比較的注目されることの少ないこのベルクソンの発言を手がかりとして、20世紀初頭のフランスにおける「表象」の概念に新たな光を当てることを試みたい。