日時:2006年11月19日(日)
会場:東京外国語大学 府中キャンパス 213教室
*発表はそれぞれ40分(質疑応答含む)です。
・斉藤尚大(都立豊島病院) 群舞の知覚と経験について
・福田貴成(東京大学大学院) 臨床の「聴取の技法」:間接聴診法の歴史における技術と身体の地位
・三浦哲哉(東京大学大学院) 「サスペンス」と映画の自意識
【司会】加治屋健司(東京大学非常勤)
斉藤尚大(都立豊島病院)
群舞の知覚と経験について
古代の祭式から現代のレイヴ・パーティに至るまで、集団での舞踊はどのように知覚され、またどのような経験をもたらしているのか。本発表では、認知や情動および記憶に関する脳科学の知見を援用して、群舞に舞踊する身体が巻き込まれていく過程や、群舞に外部から眼差しを注ぐ際の認知の機構について推論的な考察を試みる。まず、様々な群舞に共通して認められる特徴である反復的な動きのユニゾンとその「引き込み」効果について、ミラーニューロンの関与および脳の各部位の機能的なカップリングという観点から考察する。次に、引き込みによって生じる強い情動である「恍惚」という感覚について、宗教舞踊の研究またレイヴ・パーティでしばしば服用される薬剤であるMDMAを用いたラットの実験を参照して、脳の報酬系の作用として考察する。また、群舞は民族の歴史や指導者の威光を讃える政治的表象の場面でしばしば用いられている。ここで舞踊は、モニュメンタルな出来事を集団的記憶として喚起したり、個人の記憶に植え付けたりする装置として期待されていると考えられる。最後にこの機能について、記憶のマルチプルトレースセオリーなどを援用して考察する。
福田貴成(東京大学大学院)
臨床の「聴取の技法」:間接聴診法の歴史における技術と身体の地位
聴診器stethoscope及びそれを用いた診断技法である間接聴診法auscultation mediateは、19世紀における聴覚表象技術と認識とのかかわりを考察する上で、重要な位置を占めていると思われる。1810年代に生まれた聴診器は、医師と患者の身体とを「媒介」し、診断という名の認識を可能にするという点で、「メディア技術」の原初的形態のひとつであったと見なしうる。一方で、聴診器・間接聴診法誕生の時期はまた、今日的な聴覚メディア技術の基本的属性である、音響の記録・再生がいまだ不可能であった時期でもあり−−およそ60 年後、フォノグラフの名の下にエディソンによって実現される−−、そのことが、この器具・診断法にかかわる認識のあり方に、ある独特な様相を与えている。本発表では、聴診器・間接聴診法の確立者であるラエンネック(E. T. H.Laennec,1781-1826)の業績以降、19世紀末葉までのその技術的・診断技法的変遷を、音響の記録・再生にかかわる工学史、及び音響の分析にかかわる音響学史との関連のなかに位置づけ、臨床のいわば「聴取の技法」が、聴覚メディア技術の進展との接続によって経ることになった変容の様相を明確化する。とりわけ、聴取する身体の地位、およびその身体が聴取する徴候の存在様態の変化とその意味を明らかにし、「聴くことの近代」を考察するためのひとつの視点を呈示したい。
三浦哲哉(東京大学大学院)
「サスペンス」と映画の自意識
本論考は、映画の表現形式としての「サスペンス」を対象とし、この形式が20世紀中葉におけるいわゆる「古典映画」から「現代映画」への移行においていかなる役割を果たしたかを考察する。
まず第一に、アルフレッド・ヒッチコックが1910年代以降ハリウッドで作られていた「古典映画」を飽和点に導き、フランスのヌーヴェル・ヴァーグに代表される批評家主導の「現代映画」を準備したという映画史的な見取り図を確認したうえで、形式としての「サスペンス」が、「古典映画」の臨界点を露呈させる内的な必然を有していたことを明らかにする。すなわち、1)空間と時間の分節化、イメージの因果的な構築において、「サスペンス」は常に「限界」と戯れ、「限界」を意識化させることで、映画をメタレベルに至らせる。今日作られる多くの映画がヒッチコックの模倣に見えてしまう理由もここにある。2)多くのヒッチコック作品には「観客の形象」が填め込まれているが(cf.『裏窓』)、「サスペンス」は観客の「心理」を係数として含みもつ形式であり、その限りで、「見る」行為を二重化させ、顕在化する。
以上を踏まえて、本論稿が最終的に提示するのは、ヒッチコックが完成させた「サスペンス」形式こそが「古典映画」を飽和させ、また映画理論史的観点からは、特に「観客論」の分野において、カテゴリーとしての「古典」を俯瞰しうる地点を準備したという見解である。